職人的生き方の時代

自分だけの生態学的ニッチで生きる

未来を先食いした人類への情け

2020年の新型コロナウイリスによる日本の死者数は3,492人。一方、フランスの死者数は64,632人。日本の人口はフランスの約2倍なのだから、日本で13万人の死者がいてもおかしくないのに、立派な成績である。批判をする前に、まずは褒めてみるべきである。

そしてなぜ、こんなにも差がでるのか考えてみると、やはりアジアに住んでいる人には一定の免疫があり、ヨーロッパに住んでいる人には、それがなかったということだろうか。仮にそれが正しいとすると、次回、さらに新しいコロナウイルスが出現したときは、ヨーロッパの人々も免疫を獲得しているので被害が小さい可能性がある。

一方、将来ヨーロッパで未知のウイルスが出現した場合、今度はアジアの人々に甚大な被害がでる可能性もある。そういう意味では、グローバリゼーションのプラスの側面として、人類は地域ごとの土着ウイリスの交換を通して、相互補完しながら進化しているという解釈も成り立ちえよう。よって、鳥インフルエンザが地理的な要素に関係なく、世界的に蔓延して人類が免疫獲得できていることも、鳥のおかげであると理解できる。

世界的にコロナ禍がわれわれにもたらしたメッセージをなんであろうかといことの内省も必要なときかもしれない。これも仮の答えでしかないが、やはり人類は未来を先食いしすぎてしまったのだと思われる。農耕牧畜をはじめた人類はエネルギーを大量に消費しはじめ、物質的な豊かさを手に入れた。その副産物として環境汚染や国家間の争い、企業間の過当競争などあらゆるネガティブな事象をもたらした。人間の社会経済活動がグローバル化したことには副作用があるということ、寛容の精神がないと社会が分断されるということ、あらゆる資源は有限であるということ、などを知らせるメッセージかもしれない。

しかし、新型コロナウイルスのおかげで、経済活動に急激なブレーキがかかり、空気はきれいになり、川や海の水は透き通り、野生動物も元気に活動しだした。今まさにわれわれが内省を通じてバランスの取れた生き方や社会のあり方を考えるときなのかもしれない。この絶好の機会を逃すわけにはいかない。バタバタを動き回ることができない今だからこそできることがある。

ホモサピエンスが誕生したのが20万年前で、地球の誕生は約46億年前ということ。宇宙は約137億年前に誕生している。一方、われわれが学校で学ぶ歴史は5千年程度。自分も生きてせいぜい80年。この先、人類の歴史がどれほど続くのかわからないが、コロナ禍のおかげで、人類の寿命も延びているのかもしれない。

松井孝典『我関わる、ゆえに我あり』(集英社新書、2012年)によると、世界の課題について多くの人が納得できず理解に苦しんでいることについて、ある意味で科学と科学技術が圧倒的に発達してしまったことに問題があるという。より細分化・専門化されたために、その細分化された専門家以外の人からは、科学がますます遠い存在になってしまい、人々が納得できる説明ができなくなったということである。

そして、地球上における人間活動の際限のない拡大について、地球システムにおける物質・エネルギー循環を早送りし、時間を先食いすることによって豊かさを手にしたことが、さまざまな地球上の問題を引き起こしているという。そこに手を付けない限り、問題の解決はあり得ない。この点、今のわれわれの置かれた状況に符合するのではないだろうか。

また、水野和夫『閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済』(集英社新書、2017年)においても、近代システムの理念は「より遠くに、より速く、より合理的に」とう三点に集約できるが、ポスト近代は「より近く、よりゆっくり、より寛容に」ということが必要であると経済学の立場で主張する。

どうもわれわれ人類は走りすぎたし、急ぎすぎて未来を先食いしてしまったようである。まるで企業が決算の数字を作るために、翌期の数字を今期に計上してしまうようなことをしてきたのかもしれない。

自分の周囲を見渡しても、人々は効率を重視した世界で暮らし、自然と無縁な生活を目指すかのように、都市を作りコンクリートの要塞で守りを固めた。そのような堅牢な街で暮らすわけだが、緑が目に入らないし、小川のせせらぎも聞こえない。そよ風も感じることも、潮風を浴びることもない。そもそも「ゆらぎ」というものがあまりない世界で生きているだけで、本当によいのだろうか。

自然と隔離された生き方を目指せば目指すほど、自分が自然の一部であることも忘れるし、自然を征服できるとも錯覚する。パンデミックに関しても、自然と隔離された生活をおくることが遠因になっていないだろうか。

私はもっとゆらぎや、多様さ、曖昧さというものを人生に取り入れたいと思うようになった。そして、何よりも寛容というものの大切さを再認識した。今求められているのは、多様性を楽しみ、曖昧さに耐えて受け入れ、自分の直感も尊重しながら、他者に対して寛容になるということではないだろうか。