職人的生き方の時代

自分だけの生態学的ニッチで生きる

日本社会の不寛容さはもはや伝統

大学入試で不適切なマスクの着用が原因で、試験会場のトイレに立てこもった男性が警察官に逮捕された。昨年、飛行機内でマスク着用を拒否して緊急着陸させた男性も逮捕された。日本もどこかの軍事独裁国家と変わらないくらい危険な国のように思えてきた。

マスク着用拒否や不適切な着用で逮捕された人たちを、自業自得だとか、告発すべきだとか、簡単に断罪するが、価値判断を留保する余裕が持てないものだろうか。寛容さのない社会が日本の特徴かもしれないが、世界をみればもっと多様である。日本の中だけの正義論には距離を置きたい。

また、私が違和感を持つことは、事件のあった事実よりも、記事に対する読者の反応で、ほとんどのコメントが事件に対する批判であった。そして、批判的コメントに対して親指が上を向いている「いいね」の意思表示が約9割で、親指が下を向く「同意しない」意思表示が約1割である。9割の人がマスク問題に対して同じ反応をする社会がとても危険ではないかと思う。

その点、茂木健一郎氏がユニークなコメントをしている。別の対応方法があったのではないか、ということ。しかし世の中は、その茂木氏のコメントにも批判的である。マスクを一日中しているからみんな呼吸ができないのではないか。もうそろそろ一呼吸を置いて、マスク問題で価値判断を避けてもよいように思う。今は一つの価値観に猪突猛進している状態で、告発、断罪、学問への冒涜などなぜそう言い切れるのだろうか。寛容さのない社会、多様性や曖昧さを受け入れない社会に面白みはないと思う。そのような意味で茂木氏のコメントは、危うい日本社会の流れに課題設定をしてくれた。

多様性という点では、今のアメリカも非常に注目すべき状況である。有権者の得票数からいくと、半数弱の人はトランプを支持している。たしかに、かなり不思議な大統領であったが、それだけ支持者が多い。日本では、あのようなことは起きないであろう。また、トランプ支持者によるマスク拒否のデモまで起きている。アメリカは民主主義の国家であり、政府によって自由を奪われる必要はない。マスクをしない権利があるという。日本の常識からすると考えられないのであろうが、それがアメリカの多様性であり、イノベーションを起こし続ける活力でもある。

アメリカだけではない。このような政府の動きに対して、フランス国民もおかしいと思えば必ずアクションを起こす。フランスの新聞、La Croix, Opposés au port du masque chez les enfants, des parents saisissent le Conseil d’État, 05/01/2021によると、小学生の子どもを持つ183人の親たちが、子どもが学校でマスクを着用する義務に対して異議を唱えて、国務院という行政訴訟を扱う機関に訴えを起こしている。おかしいことにはおかしいとはっきりと表明する文化が定着している。だからこそ、デモはフランスの文化の一部であるといってもよいであろう。もちろん、暴徒化するという弊害もあるが、あの暴徒は一般市民ではなく、ヨーロッパ全域から集まってくる特殊な集団であり、一般市民が暴力行為をすることはほとんどない。

その点、やはり日本はおとなしい。政府がいうこと、自治体がいうことに反論することがない。夜の街の自粛要請やマスクの着用義務化が憲法違反だなどといった議論はほとんど聞かない。年末年始には札幌に帰省したが、マスクの着用率はほぼ100%といってよい。東京であれば数人マスクをしない人をみかけるが、札幌ではそのような人は皆無といってよい。もともと北海道は中央政府に財政依存している自治体でもあるので、そのような従順さがあるのかもしれない。

しかし、このような従順さは、今のような緊急事態においてはむしろ危険でもある。アメリカやフランスのように多様な考えや意見をぶつけ合うくらいのほうが間違いは起きない。このようなことを多様性があるといってよいと思うが、日本における多様性は、まだまだ道半ばである。

社会や組織が多様であることの最大の利点は、リスクマネジメントである。ある一つの方向へ社会や組織は猛進することなく、ある一つの流れができると、その流れを止めようとする勢力も現れる。異なるベクトルの意見が対立し議論が活性化することによって、バランスの取れた方向に全体のベクトルが軌道修正されるのである。