スペシャリストのすすめ

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高等教育への投資が国力の源泉に(2)

矢野眞和『大学の条件:大衆化と市場化の経済分析』(東京大学出版会、2015年)の経済分析によっても高等教育への投資は、本来であれば道路、交通、港湾などのインフラへの投資よりもはるかに経済をけん引する力があるといいます。大学で勉強したからといって所得が上がるわけではないのですが、大学時代の学習経験と就職後の継続学習が所得を押し上げます。変化の激しい時代に社会人は学習し続けなければなりません。そうでなければ、所得は向上しないわけです。そうであるなら大学で何を学ぶかも大切ですが、学習を継続することの大切さを理解し体得するだけでも大学に行く価値はあるでしょう。

大学進学率が50%を超えたのでこれ以上大学生を増やす必要はない、という議論に対しては、OECD加盟国の平均進学率は60%以上であり、加盟国中でわが国の大学進学率の順位は後ろから数えたほうが早いということを思い出すべきです。

大学全入時代に学力がないものまで大学へ行く意味がないという見解もありますが、矢野氏の研究によると、教育年数が1年増加することで所得が何パーセント増えるか分析した結果、日本では9%増えるそうです。この数値は所得格差の大きいアメリカの10%より低いのですが、先進国の平均である7.4%より高いということになります。

学力がないのに進学するのは無駄だという思い込みは経済分析によると否定され、日本は誰でも大学に進学すれば報われる社会ということになります。それでは、なぜ大学進学率がOECD加盟国の平均よりも低いのか。経済的負担が重いので大学には行けないという状況があるということです。この事実はすべての人が真摯に受けとめるべきだと思います。

このような状況の日本ですが、これに対する解決策の一つが社会人大学院だと思いました。社会に出てから自分で稼いで、そして大学院に進学するという機会を増やす必要があります。政府が大学に対する運営費交付金を増やせなというのであれば、せめて社会人が大学院で学べる環境を整えるべきです。あるいは、企業が従業員に対して十分な給与を支給できないというのであれば、リカレント教育の機会を提供すべきだと思います。

私は、政府や企業を批判するだけではなく代替案を提案したいわけです。とにかく、すべての社会人が、好きな時に、望む場所で学べる環境を整える。もし経済的支援ができないのであれば、学びたいという意欲のある人には、確かな機会を提供するということをお願いしたいと思います。

高等教育への投資が国力の源泉に(1)

少し大きなテーマで、私の手には負えないのですが、日本の高等教育のあり方について指摘しておきたいと思います。自分自身が大学院の博士課程まで修了して感じたことで、私一人の力ではどうにもならないことです。よって、できるだけみなさんと共有し、将来解決すべきテーマとしてお話しておきたいと思いました。

矢野眞和『大学の条件:大衆化と市場化の経済分析』(東京大学出版会、2015年)の分析をもとに、世界各国の高等教育を分類すると、次の四つに分けることができます。

①北欧型

ヨーロッパ大陸

アングロサクソン

④日本型

そして、①の北欧型は学費が無料でしかも給与が支給されます。②のヨーロッパ大陸型は学費が低いが給付型奨学金は充実していません。③のアングロサクソン型は学費が高いが給付型奨学金は充実しています。そして、④の日本型は学費が高くなおかつ給付型奨学金が充実していいません。

まず、学費が高く給付型奨学金がほとんど存在しない日本がいかに特殊であるかを認識しなければなりません。高等教育についてだけ考え、どの国に生まれたいかと問われれば、間違いなく北欧のどこかの国になるでしょう。あるいは、せめて②のヨーロッパ大陸型です。

いずれにしても日本型が最悪になります。アングロサクソン型の典型であるアメリカの学費は高額なイメージが強いですが、給付型奨学金が充実しているので最終的な学生の負担は軽いです。しかも、学生がローンを借りることができるので、親の経済力の問題で大学に行けないということが減るのではないでしょうか。

それにしても、なぜ日本の高等教育に多大な経済的負担がかかるのでしょう。また、最大の疑問は、なぜ誰も現状に文句をいわないのでしょうか。かつての学生運動の一つの争点は学費の値上げ反対でした。当時の感覚がまともで、何も異論が出ない今の感覚がむしろ異常です。

新自由主義のもとでは、すべてが自己責任ということになり、大学に行きたいものは自分で学費を払えということになります。

特に大学生の7割以上は私立大学に通っており、その学費は家庭からの支出です。しかも、その大学生たちが卒業して社会で活躍し、収入を得た後に税金を支払っているのですから、国家はその恩恵を受けています。もっと高等教育に対する機会の平等を確保するために投資をし、多くの人に大学等の高等教育を受けてもらうべきなのです。

平凡な社会人が文系の博士号を取得する

54歳にして、神戸大学から博士(法学)の学位を授与されました。私のバックグラウンドですが、金融業での実務経験が長い普通のビジネスマンになります。大学卒業は1991年で、バブル崩壊の直前というタイミングです。就職するのには良い時期ではありましたが、学問の面白さに気づき、そのまま大学院に行っています。その後、修士号を取得した後は、民間企業に就職しており、実際に社会人になったのは1993年です。

1993年前後はどのような時代だったのでしょうか。当時入社した損保会社の新卒採用人数に、当時の経済状況が端的に現れています。私の同期入社の総合職は90名でした。その前の年は130名で、私の後の年は30名という状況です。私は、バブル崩壊後のギリギリのところで滑り込み、社会人になれたということかもしれません。

その後、20代は営業職として働きますが、優秀な営業マンということでもありません。秀逸な営業成績を上げたということでもなく、表彰されるようなこともありませんでした。ただ、損保業界の新入社員が受講する、損害保険講座という教育プログラムで全国第2位を受賞しており、論文提出などの課題があったので、これは大学院教育を受けたことの恩恵だと思います。

次に30代では外資系保険会社や保険仲介、金融サービス業の管理部門も経験しましたが、いずれにしても損害保険に関する業務に一貫して従事してきました。ただ、いたって普通のサラリーマンであるということは前述のとおりです。

ですから読者の多数派の方々、おそらく飛び抜けて優秀な業績を残したという方でなくても記事は十分参考にしていただけると思います。

また、学業に関しても小学校と中学校では、いつも真ん中あたりをフラフラしていましたので優秀とはいえません。高校は札幌市西区普通科ナンバーワンです。でも、西区に一校しかないのであたりまえです。自宅から歩いていける高校で、山を削って建てたような校舎で学びました。育った地域は札幌オリンピックで有名な手稲山のふもとで、自然には恵まれています。今は大都市といえどもクマがでるような田舎です。

大学も国立理系をあきらめ、高校3年生で私立文系に切り替えて、何とか滑り込みセーフというようなものです。大学院に関しては学部の成績が良ければ推薦による進学が可能でしたが、成績は良くなかったので英語と民法・商法が試験科目の一般入試での進学でした。

このように特殊な能力があるわけでもなく、秀逸な実績を残したわけでもないのですが、ポイントは、博士論文に対する考え方や姿勢が重要です。後は、多くの、そして小さな失敗を経験すれば、すなわち、多くの、そして小さな挑戦を積み重ねていけば、いつの間にかゴールにたどり着いているというのが、私がお伝えしたいことの本質です。

本来なら誰もが念じた瞬間に夢が実現している世界が理想ですが、この三次元の世界では、通過しなければならない道のりや障害は多くあります。それらを淡々と経験して、さらに楽しんでいけば、意外にゴールはそれほど遠くないと思います。

平凡な社会人の私がいうのですから間違いありません。どのような方でも、日々の仕事でその人だけの経験やテーマがあります。それが論文題目になります。それを見つけて、とにかく失敗を繰り返しながら、研究素材を積み上げていく。こんなことで博士論文の道のりは自然にみえてくるものです。

ただ、詐欺だといわれないために、申し上げておきたいと思います。博士号を取得したからといって劇的に人生が変わるわけではありません。見える世界が変わるわけでもなく、何の変哲もない日常が続きます。

学位記授与式の後、時間があったので一緒に式に同行してくれた長女と六甲ケーブルに乗りました。六甲ケーブル下駅から六甲ケーブル山上駅まで登るものの、あいにくの天気で視界不良です。

これが象徴的な出来事なのですが、博士号を取得して、さらに高みを目指すものの、五里霧中ということです。すなわち、博士号があるから突然、人生が良い方向に変わるということではない点、自分の目の前が急に開けて幸せを感じるということではない点、所得が倍増するなどということもない点、念を押しておこうと思います。読者のみなさんを失望させたくありませんので。

それでも挑戦したことはよかったと思っています。そのような挑戦が人それぞれに、その人のあり方で次第で価値があるのは間違いありません。

博士号をお金で買うのはどっち

理系の世界では、論文博士のことを「お金で学位を買う」といことがいわれることあるようです。企業の研究職の方が、産学協同の過程で、提携先の大学の論文博士制度を使うからでしょう。たしかに、数十万円の審査料は支払うので、お金で学位を買っているようにみえます。

しかし、文系の世界は明らかに違います。私の感覚では、論文博士のほうが2倍から3倍は難易度が高いのではないでしょうか。それは、2018年に論文博士制度を利用しようと、いろいろな方に相談させていただいた経緯からわかったことです。

まず、ある商事法の重鎮といわれる方にアドバイスをもらったとき、課程博士とは異なり、論文博士は格段に難易度が増すことを指摘されました。当然のことながら、内外の先行業績の紹介はもれなくされていることにとどまらず、従来のアプローチとは異なる新しい角度からの分析・解明が説得的に展開されていることが必要であり、当該学問分野の従来の研究水準を格段に前進させるものと評価されなければならないということでした。

そして、もしそのような論文として判断される場合は、そう評価した先生が主査となり、博士論文審査委員会によって、5名の審査委員が選任されます。その中には、当該分野が専門の教授のほかに、大所高所から意見を述べる専門分野の教授が一人審査委員に入ることもあるそうです。

これを聞いただけでひるんでしまいます。また、これらのことは各大学院の規則などに明文化されているわけではなく、形式上は課程博士も論文博士も同じ水準なはずです。にもかかわらず、どこの大学でも不文律があるのか、過去からの申し送り事項なのか、求められる論文の水準は、論文博士のほうがはるかに高いことになります。

よって、理系における論文博士の「お金で学位を買う」というのは、文系には当てはまらず、むしろ大学院に進学し、学費を支払ってお金で学位を買うのは課程博士の方になるともいえます。

個人の幸福より社会の効率を求める教育システム

パンデミック社会がなかなか終わらない日本です。マスクは社会の風景を大きく変えるし、視覚的にも異様な世界をつくり出すので、いつまでもパンデミックが継続するような錯覚をもたらします。ヨーロッパの各国は、とっくに次のステージに進んでおり、様々な課題に対して、議論がシフトしていますが、なぜ日本だけ同じ場所にとどまっているのでしょう。

その一つの要因に日本の教育制度があると思います。すべての日本人は、義務教育から独特のシステムの中で育てられています。どのような人材に育てられるかというと、社会にとって最も効率が良い人材です。本来であれば、個人の幸福のために教育があるのですが、社会の効率のために個人を教育するのが現実のシステムでしょう。

一番わかりやすいのは、先生の言うことを聞く生徒がいい生徒です。先生は、先に生まれたというだけですから、先生と違う意見や考えを持つのは、まったく問題ないはずです。しかし、日本の教育システムでは先生の意見に服従というのが望ましいわけです。

パンデミックの間、どれだけに日本人は医者や政治家、そしてその他専門家の「先生」のいうことを聞いてきたでしょう。多くの人は反論したり異論を唱えたりすることもなく、自分の心の中で疑問するら抱くことはありませんでした。日本の教育システムが非常に機能しているという証拠だと思います。

私は論文を執筆するので、よく編集部の方から先生と呼ばれます。とても気分がよくないので、できれば「さん付」けでお願いします、とお伝えします。なぜ気分がよくないのかというと、ある人が、人は「先生」と呼ばれるようになったら終わりだということを聞いて、何となく納得するものがあったからです。たしかに、日本社会において先生と呼ばれ続けると、その人の人格や態度も変わってくるのではないでしょうか。だから先生と呼ばれないように、さん付けで呼ばれたいというのは、自分を守るために必要です。ここを踏み外すと、人生よからぬ方向に向かいます。

そして、単に先に生まれた人の意見には服従するという規範は、世の中には先例がない問題や、時代の変化で過去の事例が現時点で通用しないことがあることを考え合わせると、非常に不合理なわけです。しかし、日本では忠実に過去の教育システムを維持しています。それが日本社会にとって都合がいいからでしょう。社会を支配する側にとって最も機能的なわけです。

そして、この教育システムはあらゆる組織を維持するために完璧に機能してきました。学校はもちろんそうですが、会社や組合、その他団体です。軍隊組織としての自衛隊などもそうでしょう。しかし、これからあらゆる組織が崩壊し、個々人が横につながって生きていくような時代になると、あるいは、すでにそのような時代に突入していますが、この教育システムは機能しなくなります。

そして本来、日本の大学教育は、このピラミッド社会から抜出すために機能するはずですが、残念ながら大学に入ってから学ぶ日本人は少ないので、結局、組織にとって忠実な人材のままで終わります。ですから、いつまでたっても個人の幸福感があじわえません。これで、大学では勉強しない、学ばない、考えないというとにしておき、ますます管理する側、支配する側にとって都合のよい人材を量産することになるわけです。よって、多くの人が高等教育などを通じて社会システムの矛盾や、裏の仕組みに気がつくことが、日本を変える原動力になると思います。そういう意味で、これからの高等教育の役割はかなり重要になってくるのではないでしょうか。

子どもの教育費を使い博士号

2023年3月7日、神戸大学大学院法学研究科博士課程後期課程修了者が発表されました。自分の学籍番号も掲載されていましたが、私は3月16日まで気がつきませんでした。翌週には学位記授与式が開催されるので、大学院の事務に問い合わせたところ、大学のイントラネットですでにお知らせが配信されているとのこと。あわてて確認したら自分の学籍番号が掲載されており合格を知ったという経緯です。

ちょうど今年は、長男が大学受験で、長女が高校受験でした。二人とも第一志望の学校に合格して、あわただしい日々が過ぎており、自分自身の博士論文の合否に神経がまわりませんでした。二人の子どもが合格で、大とりのおやじが不合格というのはまずかったわけですが、おかげさまですべてハッピーエンドとなりました。しかも、これ以上、子どもの教育費を親が使い込むわけにはいかなかったので、ちょうどよいタイミングでもありました。

このような状況で博士(法学)の学位が授与されることになったわけですが、振り返ってみると、博士論文の一部の章になる部分を書き始めてから8年が経過していました。とても長い年月が過ぎており、やはり文系の博士号の取得は難しいのかと思う人も多いと思います。結論を申し上げますと、簡単ではないでしょうが、誰もが楽しみながらゴールをめざせるものだと思います。

ですから博士号を考えている人はあきらめないで欲しいと思います。「どうせ私は」とか、「どうせできるわけがない」という、この「どうせ」という考えは捨てた方がいいでしょう。常に自分に限界を設けてしまう言葉になります。博士号を取得するのは、誰が決めるのかは自分自身です。もちろん、審査する教員はいますが。そして、10秒で博士号の本質を説明してくださいといわれれば、次のとおり述べます。

① 文系の博士号は想定以上にハードルが高い
② ただし、楽しみながら目標に向かえば誰でも実現できる

社会人として自分しか知り得ない経験を理論化し、客観的な記述を徹底していくと、単なる経験が普遍化してきます。そして、その分野のことを知りたいと思う人にとって参考となる博士論文ができあがります。

誰もがオンリーワンの経験があるので、それをぜひ論文として仕上げてみることをおすすめします。テーマも自分の仕事で培ったノウハウにするとよいと思います。人によっては機密情報が気になるという人もいますが、それはまだ十分に客観化できていない証拠です。単なる体験談ではなく、論文のレベルに昇華させるには、多くの先人の研究を参照し、そこから自分の経験の理論化が必要になるのでしょう。

最後に法学の博士号の目途が立ったころから、今度は情報学に興味が出てきました。サイバー保険に関する論文を5本ほど書いたものの、満足いく内容ではなく、冷静に考えてみると情報セキュリティに関する知見が明らかに不足していることが理由だと思うようになりました。しばらくは、子どもの教育に資金を確保することが優先でしょうが、また目途が立てば、情報学の博士号も考えてみたいと思います。死ぬまでやることがあるというのは、ある意味で幸せかもしれません。

「マスク」は自分を試す小道具か

マスクが個人の判断ということになりましたが、多くの人がマスクをしたままのようです。私は、今までほとんど実効性などないと思いながら、電車や建物内ではマスクをしてきたので、一切マスクをやめさせていただきました。長い間我慢してきたものです。

今の悩みは、マスクをしている人をみると、正直申し上げて「なんと頭が悪いのだろう」と思ってしまう自分がときどきいることです。単に自分と見えている世界が違うだけでありながら、自分の中の傲慢さや驕り、尊大さが姿を現します。少し調べれば、マスクに効果はないことは明らかだと考えてしまいます。ヨーロッパでは、もうマスクをしている人はいません。同じ人間なのになぜ。犬や猫がマスクをしていることはありません。でも元気です。マスクをしないと人類は絶滅することもありません。みんなウイリスや菌のおかげで生かされているはずです。

そんなときは、すぐに思考停止するように心がけています。それでも、自分のネガティブな思考は嫌なものです。電車に乗っていても、他者の悪意を持った視線があるのではないかと余計なことも考えます。自分のメガネを外せば、ほとんど見えないので、気にならないという方法も見つけましたが、階段などは危険なのでそれもできません。それにしても、みんなマスクが大好きです。マスクをするのも自由なので、それでいいのですが、私はマスクを外す自由を謳歌させていただいています。

私は頭がいいな、と思う人たちは、マスクを使って社会を分断している人たちです。彼らにとってはマスクの効用などどうでもいいのだと思います。ただ、マスクが有用であるという情報を流布し、マスク肯定派とマスク否定派を対立させて、自ら利を得る。戦争と同じで、対立を誘発して得をする人たちがいるのではないでしょうか。

ワクチンもそうです。ワクチン肯定派とワクチン否定派を対立させることで、儲けることができる人がいる。どちらの側にも市場ができて、そこで商売ができます。考えすぎかもしれませんが、そのような対立からいろいろなコミュニティができ、そのコミュニティに対してマーケティングすることで利益を得ることができます。それに乗るのもいいし、距離を置くのもいい。これについてもどちらも自由といっていいでしょう。

しかし、究極的には、私たち一人ひとりが対立した社会を好んでいるのかもしれません。それを利用している狡猾な人もいるかもしれませんが、その分断を乗り越えられない私たちがいるのは事実です。共生社会とかダイバシティなどと気取ったことをいいながら、しっかり人を差別し、社会の対立を促している。そういう意味では、ワクチンと同じくらいマスクは厄介な存在です。

私自身は、次の段階に進みたいので、パンデミックに関するあらゆることは終わりにしたいです。もう自分の中で整理がついているといえばいいでしょうか。でもマスクひとつとってもいろいろ面倒な課題や感情もわいてくるので難しいものです。マスクもワクチンも、自分の本性をあぶりだすのに、ちょうどよい小道具なのかものかもしれません。しっかり自分の内面を観察したいと思います。