スペシャリストのすすめ

自分だけの生態学的ニッチで生きる

平凡な社会人が文系の博士号を取得する

54歳にして、神戸大学から博士(法学)の学位を授与されました。私のバックグラウンドですが、金融業での実務経験が長い普通のビジネスマンになります。大学卒業は1991年で、バブル崩壊の直前というタイミングです。就職するのには良い時期ではありましたが、学問の面白さに気づき、そのまま大学院に行っています。その後、修士号を取得した後は、民間企業に就職しており、実際に社会人になったのは1993年です。

1993年前後はどのような時代だったのでしょうか。当時入社した損保会社の新卒採用人数に、当時の経済状況が端的に現れています。私の同期入社の総合職は90名でした。その前の年は130名で、私の後の年は30名という状況です。私は、バブル崩壊後のギリギリのところで滑り込み、社会人になれたということかもしれません。

その後、20代は営業職として働きますが、優秀な営業マンということでもありません。秀逸な営業成績を上げたということでもなく、表彰されるようなこともありませんでした。ただ、損保業界の新入社員が受講する、損害保険講座という教育プログラムで全国第2位を受賞しており、論文提出などの課題があったので、これは大学院教育を受けたことの恩恵だと思います。

次に30代では外資系保険会社や保険仲介、金融サービス業の管理部門も経験しましたが、いずれにしても損害保険に関する業務に一貫して従事してきました。ただ、いたって普通のサラリーマンであるということは前述のとおりです。

ですから読者の多数派の方々、おそらく飛び抜けて優秀な業績を残したという方でなくても記事は十分参考にしていただけると思います。

また、学業に関しても小学校と中学校では、いつも真ん中あたりをフラフラしていましたので優秀とはいえません。高校は札幌市西区普通科ナンバーワンです。でも、西区に一校しかないのであたりまえです。自宅から歩いていける高校で、山を削って建てたような校舎で学びました。育った地域は札幌オリンピックで有名な手稲山のふもとで、自然には恵まれています。今は大都市といえどもクマがでるような田舎です。

大学も国立理系をあきらめ、高校3年生で私立文系に切り替えて、何とか滑り込みセーフというようなものです。大学院に関しては学部の成績が良ければ推薦による進学が可能でしたが、成績は良くなかったので英語と民法・商法が試験科目の一般入試での進学でした。

このように特殊な能力があるわけでもなく、秀逸な実績を残したわけでもないのですが、ポイントは、博士論文に対する考え方や姿勢が重要です。後は、多くの、そして小さな失敗を経験すれば、すなわち、多くの、そして小さな挑戦を積み重ねていけば、いつの間にかゴールにたどり着いているというのが、私がお伝えしたいことの本質です。

本来なら誰もが念じた瞬間に夢が実現している世界が理想ですが、この三次元の世界では、通過しなければならない道のりや障害は多くあります。それらを淡々と経験して、さらに楽しんでいけば、意外にゴールはそれほど遠くないと思います。

平凡な社会人の私がいうのですから間違いありません。どのような方でも、日々の仕事でその人だけの経験やテーマがあります。それが論文題目になります。それを見つけて、とにかく失敗を繰り返しながら、研究素材を積み上げていく。こんなことで博士論文の道のりは自然にみえてくるものです。

ただ、詐欺だといわれないために、申し上げておきたいと思います。博士号を取得したからといって劇的に人生が変わるわけではありません。見える世界が変わるわけでもなく、何の変哲もない日常が続きます。

学位記授与式の後、時間があったので一緒に式に同行してくれた長女と六甲ケーブルに乗りました。六甲ケーブル下駅から六甲ケーブル山上駅まで登るものの、あいにくの天気で視界不良です。

これが象徴的な出来事なのですが、博士号を取得して、さらに高みを目指すものの、五里霧中ということです。すなわち、博士号があるから突然、人生が良い方向に変わるということではない点、自分の目の前が急に開けて幸せを感じるということではない点、所得が倍増するなどということもない点、念を押しておこうと思います。読者のみなさんを失望させたくありませんので。

それでも挑戦したことはよかったと思っています。そのような挑戦が人それぞれに、その人のあり方で次第で価値があるのは間違いありません。