スペシャリストのすすめ

自分だけの生態学的ニッチで生きる

「マスク」は自分を試す小道具か

マスクが個人の判断ということになりましたが、多くの人がマスクをしたままのようです。私は、今までほとんど実効性などないと思いながら、電車や建物内ではマスクをしてきたので、一切マスクをやめさせていただきました。長い間我慢してきたものです。

今の悩みは、マスクをしている人をみると、正直申し上げて「なんと頭が悪いのだろう」と思ってしまう自分がときどきいることです。単に自分と見えている世界が違うだけでありながら、自分の中の傲慢さや驕り、尊大さが姿を現します。少し調べれば、マスクに効果はないことは明らかだと考えてしまいます。ヨーロッパでは、もうマスクをしている人はいません。同じ人間なのになぜ。犬や猫がマスクをしていることはありません。でも元気です。マスクをしないと人類は絶滅することもありません。みんなウイリスや菌のおかげで生かされているはずです。

そんなときは、すぐに思考停止するように心がけています。それでも、自分のネガティブな思考は嫌なものです。電車に乗っていても、他者の悪意を持った視線があるのではないかと余計なことも考えます。自分のメガネを外せば、ほとんど見えないので、気にならないという方法も見つけましたが、階段などは危険なのでそれもできません。それにしても、みんなマスクが大好きです。マスクをするのも自由なので、それでいいのですが、私はマスクを外す自由を謳歌させていただいています。

私は頭がいいな、と思う人たちは、マスクを使って社会を分断している人たちです。彼らにとってはマスクの効用などどうでもいいのだと思います。ただ、マスクが有用であるという情報を流布し、マスク肯定派とマスク否定派を対立させて、自ら利を得る。戦争と同じで、対立を誘発して得をする人たちがいるのではないでしょうか。

ワクチンもそうです。ワクチン肯定派とワクチン否定派を対立させることで、儲けることができる人がいる。どちらの側にも市場ができて、そこで商売ができます。考えすぎかもしれませんが、そのような対立からいろいろなコミュニティができ、そのコミュニティに対してマーケティングすることで利益を得ることができます。それに乗るのもいいし、距離を置くのもいい。これについてもどちらも自由といっていいでしょう。

しかし、究極的には、私たち一人ひとりが対立した社会を好んでいるのかもしれません。それを利用している狡猾な人もいるかもしれませんが、その分断を乗り越えられない私たちがいるのは事実です。共生社会とかダイバシティなどと気取ったことをいいながら、しっかり人を差別し、社会の対立を促している。そういう意味では、ワクチンと同じくらいマスクは厄介な存在です。

私自身は、次の段階に進みたいので、パンデミックに関するあらゆることは終わりにしたいです。もう自分の中で整理がついているといえばいいでしょうか。でもマスクひとつとってもいろいろ面倒な課題や感情もわいてくるので難しいものです。マスクもワクチンも、自分の本性をあぶりだすのに、ちょうどよい小道具なのかものかもしれません。しっかり自分の内面を観察したいと思います。