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地球温暖化と炭酸ガス排出に相関はない

炭酸ガスによる温室効果地球温暖化に影響しているということが、多くの人々の共通認識になってしまいました。本当にそうなのか、と誰も疑わないのは、気候変動に関する政府間パネル(以下「IPCC」)という団体によって発信される報告書に、そのように書いてあるからです。また、その報告書を引用して大手メディアが、同じ論調で地球温暖化の脅威を煽るので、多くの人は大手メディアが報じることに間違いはないと信じようになります。そして、地球温暖化脅威論の信念は、ますます強化されることになります。

赤祖父俊一『正しく知る地球温暖化』(誠文堂新光社、2008年)について、前回の記事で紹介しましたが、私たちが地球温暖化懐疑論について学ぶためには、古典といってもいいくらい重要な文献だと思います。

誤った地球温暖化論に切り込む一人の研究者 - スペシャリストのすすめ (specialistbiz.jp)

赤祖父氏が検証した結果によると、IPCCが主張する、炭酸ガスによる温室効果地球温暖化の原因であるという主張は誤りであることがわかります。まず、IPCCの研究は、地球の気温は1000年頃から緩やかに下降してきたが、1900年頃から突然温暖化に転じたということになっています。それを示す図が、アイスホッケーのスティックを真横にすると、突然、スティックの先が急に上に曲がる形状に似ているので「ホッケースティック」というあだ名で呼ばれています。

しかし、赤祖父氏の研究によると、このホッケースティックには、1400年から1800年頃まで地球が経験した寒冷期である「小氷河期」が考慮されていないと指摘します。よって、ホッケースティックのように、1900年から急激に温暖化したわけではなく、小氷河期から直線的に緩やかに気温が上昇しているということになります。よって、人類の活動が炭酸ガスを放出したことによって、温暖化が生じているというのは間違いであることになります。

そうはいっても、アメリカの元副大統領のアル・ゴア氏がいうように、北極海に生息する白クマが絶滅の危機に瀕しているではないかとか、暖かい気温のため氷河の塊が崩れて海に落ちているではないか、などという事実を指摘する人がいるかもしれません。しかし、それも科学的な根拠はありません。白クマが長距離を泳いで死んだなどというストーリーは、人の心を打つかもしれませんが、そのような事例が頻発している証拠はありません。また、北極圏では氷河が崩れ落ちるのは日常茶飯事の事象で、温暖化が原因で起きる現象でもありません。これらのドラマティックなストーリーは映像としても魅力的で、地球温暖化を演出するためのとても良い材料ではありますが、炭酸ガスの排出に起因して、温暖化が生じたことを証明するものではまったくありません。

私が赤祖父氏の研究について信頼できると思える点が二つあります。一点目は何千年という長期の視点をお持ちであること。二点目は、地球という巨大なシステムについて、わからないことが多いということを認めていることです。

地球誕生以来、45億円の年月を経ていますが、最近の40万年だけをとってみても、約10万年の周期で4回の大氷河期を経験して、北米、ヨーロッパは厚い氷に覆われた時代があったそうです。その原因についてはまだまだ理解するに至っていません。もちろん、これらは人間活動によるものではありません。

もっと最近の過去1000年の気候変動をとってみても、現在ほど暖かかったとされる中世期の温暖化(約1000年前)、1400年頃からはじまった寒冷化、さらに最近の1910年頃から1940年に起きた温暖化、そして、1940年から1975年まで続いた寒冷化は、その原因が十分にわかっていません。1910年から1940年の期間に起きた温暖化は、炭酸ガスの放出が急激に増加しはじめる1946年以前の現象なので、自然変動による可能性が高いわけです。それすら究明されていないのに、1975年からの温暖化を炭酸ガスによるものと結論付けるのは早計ではないかということになります。

前回の記事でも述べましたが、これはやはり「温暖化商人」が背後におり、脱炭素を使って、また新しいビジネスを作り出すという力が働いている可能性も否定できません。そもそもIPCCは、世界気象機関(WMO)及び国連環境計画(UNEP)により1988年に設立された政府間組織であるということですから、特定の意図や計画を持っていることは十分あり得ます。IPCCリクルートしている研究者が脱炭素へ誘導する研究をしている人ばかりという点にも問題があると思います。ICPPの報告書も脱炭素に都合の良いデータのみをチェリーピッキングしているのではないかという点からして、私たちはIPCCの報告について批判的な視点を持つことが大切だと思います。

誤った地球温暖化論に切り込む一人の研究者

炭酸ガス温室効果によって地球温暖化が生じているということに、懐疑的な見解を表明している研究者は多いですが、その中でも元祖的な存在の一人に赤祖父俊一氏がいると思います。アラスカ大学国際北極圏研究センターの所長を長く勤め、オーロラに関する研究ですばらしい業績を残された方です。

赤祖父俊一『正しく知る地球温暖化』(誠文堂新光社、2008年)において、気候学者ではないということを逆手にとって、地球温暖化についても研究結果を示します。彼の結論は、地球温暖化の原因は、人類の活動によって放出された炭酸ガス温室効果によるものはわずか6分の1程度で、残りの6分の5は「小氷河期」という比較的寒かった1400年から1800年を経て地球が回復中のために気温が上昇していると結論付けます。

現在は、気候変動に関する政府間パネル(Intergovernmental Panel on Climate Change、以下「IPCC」)が地球温暖化の原因は炭酸ガスと結論付け、それに政治家や官僚、マスコミが同調している状況です。IPCCは学会ではなく政府間組織で、130各国から2,500名の専門家を集めて気候変動について研究をしています。その2,500名の専門家が一致して、地球温暖化の原因は炭酸ガスであると主張しているところに、懐疑論者として赤祖父氏は切り込むわけです。

どうもIPCCの見解には、政治的な思惑もあるようで、純粋な学問的な探求から結論を出していないのではないかということ。背後には「温暖化商人」のような人々もおり、ここぞとばかりに気候変動を利用したビジネスで一儲けしようという計画もあることでしょう。そのような中、赤祖父氏は、純学問的動機で温暖化の原因を分析した結果が、現在の温暖化は気候変動の一環なだけであり、人類の活動はそれほど影響していないという結論に至ります。このような説は、温室効果を温暖化の原因であると主張する、研究者や政治家、マスコミにはとても不都合なことでしょう。しかし、そのミスリードによって、我々が不要な対策をしているのであれば、それは人類にとって大きな損失になります。

また、赤祖父氏は気候学の専門家ではないご自身が、気候変動について研究する利点を指摘します。まず、気候学の専門家であると、気候学の狭い専門分野に集中して研究しなければ、専門家として認められません。よって、総合的に全体をみることができなくなります。その点、赤祖父氏は研究所の所長として北極圏の研究の全体像をみてきたので、分野を細分化しないで研究ができます。このようなことを総合研究といいます。研究者は、北極圏の研究において、大気、北極海、氷河、永久凍土、植物、動物などの分野に分化された研究を行いますが、赤祖父氏は、それを総合して全体像を把握するわけです。よって、気候学者ができない総合研究ができるという点で、非常に幸運な立場にいたといいます。

一方、IPCCの研究者は、炭酸ガスが温暖化に影響していることに懐疑的な人は招かれることなく、名称は「気候変動に関する政府間パネル」ですが、実態は「炭酸ガスによる温室効果研究グループ」になっているということです。一点集中で結論ありきの研究がなされているということでしょう。それに多くの人が追随しているという今の状況には、問題があるということです。

学問の分野でよくある「専門バカ」というのは、気候変動の研究分野でも起こり得ることで、赤祖父氏の理論展開では、それが明らかになります。「2,500名の専門家 vs. 一人の研究者」という構図ですが、学問の世界では必ずしも多数説が正しいとは限りません。その点、赤祖父氏の主張は非常に興味深いと思います。別の機会により詳細に検証してみたいと思います。

社外取締役というバブル

社会人教授の次は、もっと大きなバブルが生じていると思われる、社外取締役という仕事について考えてみたいと思います。これも自分にとって身近なテーマですが、社外取締役の仕事は、業務執行役員、すなわち経営陣に対する監督が重要なものとなります。決して経営陣に対する助言とか評論家のようなコメントを提供することではありません。取締役会は、いわゆる「モニタリング・モデル」といわれる、監督がメインの機能としてあり、その取締役会の主要なメンバーが社外取締役になります。

しかし、今の社外取締役は、助言役のような仕事をしている人が多いようです。先日、週刊ダイヤモンド(2022年7月2日号)に社外取締役の特集が掲載されており、社外取締役の中には、5社を兼務して合計9,000万円の役員報酬をもらっている人もいました。一つの会社で監督機能を発揮するのも大変なはずですが、複数兼務して高額報酬を獲得する人がいるわけです。それで報酬に見合う機能を発揮しているのであればいいのですが。

また、取締役会のダイバシティが重要ということで、女性の社外取締役は各社で争奪戦になっているようです。女性であるかどうかよりも、経営を監督できるかどうかの方が大切な要素のはずですが、女性ということがカギになっていたりします。監督機能を発揮するには、会社法金融商品取引法、労働法、競争法などの各種法令を理解し、ファイナンスや会計などの知識も必要で、かなり広範な分野における経験と知見が不可欠になります。過去の成功体験を取締役会で語られても困るわけです。

しかし、実際の社外取締役は、どこかの大手企業の経営者を経験していましたとか、大手金融機関で役員を務めていましたとか、女性経営者です等、ある意味でブランドでそのポジションに就いている人も多いようです。日本の場合、大学教授、弁護士、会計士が多いのも特徴でしょう。ただ、本当に社外取締役として訓練を受けた人で適任者かどうかはわかりません。社外取締役のリクルーターには、「月に一回取締役会に出るだけでいいので」ということで、声をかける人もいるそうです。また企業側からは、「女性なら誰でもいいので紹介して欲しい」というところもあるそうです。コーポレート・ガバナンスとか格好いい横文字を使っても実態はこの程度の世界なのかもしれません。

この社外取締役という制度は、主にアメリカからやってきました。アメリカの取締役会のメンバーには、従業員から出世して、その会社の取締役になる人はほとんどいません(CEO、CFO、COOなど業務執行役員になる人は多いです)。取締役の多くは他社からやってきます。一方、日本の取締役は、ある会社の従業員から、その会社の取締役になる人がほとんどです。従業員は会社との雇用契約で、取締役になると会社との委任契約になりますが、多くの人は雇用契約のままの意識で取締役を続けます。ここが問題かもしれません。委任契約というのは、会社と自身の利益が反した場合は、必ず会社の利益を優先する必要があります。そもそも利益相反する立場に身を置いてはいけません。日本では忠実義務とか、英米では信認義務などといいます。この信認義務を理解しないと、本当は取締役が務まらないはずですが、その本質を理解している取締役は少ないことでしょう。その取締役が、他社の社外取締役になっても、委任契約の本質は理解できていないということは同じだと思います。アメリカの制度の外形のみを輸入しても、中身は従来型の日本のサラリーマン社会なわけです。

信認義務で、私たちにとってわかりやすい例は投資信託があります。投資信託投資信託会社(運用会社)や受託会社は、投資家に対して信認義務を負っています。他人のお金を預かってそれを運用する過程で、自分の利益よりも投資家の利益を優先するというあたりまえのことを実践することになります。この他人のお金を預かっているという意識が、雇用契約以上に委任契約で強調されなければなりません。社外取締役の方々がどれだけこの「他人のお金をお預かりしている」という意識を持っているでしょうか。週刊ダイヤモンドに掲載されている報酬額や兼務している社数をみたとき、疑問に思わざるを得ませんでした。

社会人教授というバブル

社会人教授という職種はバブル化しているようです。その意味するところは、ある一定数の人が実態以上に評価されている、あるいは本当の実力が不明瞭でありながら、その地位に就けている状態といえそうです。私にとって比較的身近な存在なので、現在バブルが生じている現状について考えてみます。

社会人教授になるための必要条件として、厳しい目を持っているのは、ご自身も社会人教授の松野弘氏です。ご本人の著作『サラリーマンのための大学教授の資格』(VNC、2014年)によると、学術的な著作や論文という研究業績のない研究者は、大学市場から退場せよ、といいます。英語で、"Publish or Perish!"というようです。

たとえば、文系で50歳の社会人教授クラスで求められる最低限の研究業績は、単著2冊、編著4冊、論文数30本以上ということです。かなり高いハードルですが、学生に論文指導するわけなので、当然その程度の実績がないと指導できないという理屈です。たしかに、あらゆる角度から先行研究を調べて整理し、独自の論点を提示していく過程で、論文における丁寧な引用の仕方も必要で、最低限の研究手法を理解しておくことは大切でしょう。タレントや学術的成果のないジャーナリストが教授になっている実態を危惧しての提言として、あえて厳しい基準を設けているのだと思います。

私の知り合いでも、特に経営学の分野で社会人学生に教えている人がいます。学術的な業績はあまりないのですが、新設された大学院などでは、比較的簡単に特任教授や客員教授になれるようです。人脈がものを言う世界でしょうが、授業料を支払って受講している学生も経験豊かな社会人なわけで、教えていてかなり厳しいのではないかと想像します。必死で背伸びをしても、自分の背丈以上に背は伸びないわけです。そのような余計な苦労をするなら、松野氏が指摘するハードルをクリアする苦労をはじめからしておく方が賢明だと思いました。

大学や大学院が身近になり、そこで教える教員の条件もかなり緩和されたのでしょう。学問の世界にも自由化が押し寄せたのでしょうが、学生の質の低下以上に、教員の質の低下が危惧される事態に陥っているともいえます。そのような基準の緩和は、基準を作成している官僚にとっても、天下りの機会を増やすのにはいいのかもしれませんが、真剣に学術のプロから学びたいと思っている人には災難ともいえます。

つまり、単なる職業経験に基づく経験談や武勇伝を聞くために、授業料を払って大学や大学院に行く人はいないということです。それであれば、その辺でやっているセミナーに参加することで十分です。よって、社会人教授といえども、基本は先行研究を調査し、自分なりの分析を加えて、独自の理論を展開する方法を教えることです。そのためには、外国の資料も含めて、文献の調べ方や分析の方法等、学術的研究の基礎を最低限備えておく必要があります。そのように考えると、今現在、社会人教授になっている人の多くは、松野氏の提示する基準を満たしていないでしょう。最悪でもその半分はクリアしておいてもらいたいものです。あまりにも雰囲気だけでこれだけ社会人教授が増えてしまうと、大学や大学院の人件費削減にはなっても、質の担保は難しいのではないでしょうか。

社会人大学院生は10年から20年後の成果を目指す

1990年代初めから大学では大学院重点化ということが行われています。大学における教員のポストが増えるわけでもないのに、なぜ研究者を養成する大学院を強化していったのでしょうか。いろいろな理由があるようですが、酒井敏『野蛮な大学論』(光文社新書、2021年)に興味深い見解がありました。

酒井氏によると、博士を増やしてもポストがあるわけではないので、研究者の養成が目的であったはずはないといいます。実際、文部科学省が掲げていた大義名分は国民の「生涯学習」の促進であったということです。生涯学習といっても大学院はあくまでも研究の場。社会人がカルチャーセンターに通って外国語や古典文学など趣味で学ぶレベルでは同列に語れません。

それでは、生涯学習として大学院を修了した人たちはどこに行くのでしょうか。それはやはり企業しかありません。アメリカ等では、博士号を持つ人たちが好待遇で企業に迎え入れられることがあり、文部科学省には、日本にもそういう企業文化が広まることへの期待があったのではないかといいます。

ただ、残念ながら日本企業にそのような発想と余力があるとは思えません。企業は、組織に特定分野の専門家を取り込み、未来のためのイノベーションを期待するなどという悠長なことは言っていられないからです。とにかく四半期ごとの決算で、すぐに役立つ人材が必要なわけで、組織内で自由に研究をして、いつ成果を出せるかわからない人材を採用する余裕はないわけです。

およそ社内で用意されている研修をみてもわかりますが、即効性があり、日々の業務に直結したものばかりではないでしょうか。本来はかなり余分な知識を学び、本業に関係のない情報も得て、10年後、20年後に成果が出るかもしれない研修があってもいいと思うのですが、企業にとっては、そんな研修などあり得ないとなるでしょう。

酒井氏は、福利厚生の一環で従業員を大学に送り込むことも提言します。ただしその場合、「会社の研究開発に役立つ知識を仕入れてこい」といった具体的な目的を決めないほうがよいといいます。比喩的表現を用いて、大学院で身につけるのは「筋肉」ではなく、「脂肪」であるといい、大学院を保養施設と同じように利用させるとよいと提言します。

たしかにその通りだと思います。しかし、前述したように企業にそのような発想や余裕はなく、視点はせいぜい3年、長くて5年で成果を期待します。たとえば、上場企業の場合、経営者の在任期間がその程度なので、視界がそこまでしか届かないのでしょう。最近は役員報酬に長期インセンティブも付与され、長期的視点も必要とされていますが、10年先、20年先ともなれば、そもそも経営者本人が生きているのか、ということすら微妙なケースもあるわけで、なかなか「10年後、20年後に成果を出してくれればいいよ」といえる人はいないのかもしれません。

いずれにしても、企業と大学のあり方は変わる必要がありますが、組織がなかなか変われないのはいつの時代も同じです。よって、企業で働き、大学院で学ぼうという人々が自分から変わっていく必要があるのだと思います。自分自身の人生について短期的視点だけではなく、長期的視点で戦略を策定することはできるわけなので。

「自然死」を実践した偉大な医師

父が年齢を重ねて、人生の終わりに近づいてきたと感じたときに、平穏死や自然死に関する書籍を何冊か読みました。誰であろうと、自然な形で逝けるのが理想だと思い、病院で多くの管につながれて終わりを迎えるのは不自然だと思ったからです。

いくつか読んだ本の中で印象に残っている一冊に、中村仁一『大往生したけりゃ医療とかかわるな』(幻冬舎新書、2011年)があります。その中に自然死のしくみについての記述がありました。

自然死の実態は「餓死」「脱水」だそうです。「餓死」「脱水」といえば、非常に悲惨に聞こえますが、空腹なのに食べ物がないとか、のどが渇いているのに水がない、という状態とは異なります。死に際のそれは、命の火が消えかかっているので、お腹もすかないし、のども渇かない状態ということです。

「餓死」の状態になると、脳内にモルヒネが分泌され、いい気持ちになって、幸せムードに満たされます。また、「脱水」は、血液が濃く煮詰まることで、意識レベルが下がり、ぼんやりした状態になります。このように死というのは自然の営みなので、過酷なものではありません。不安や恐怖や痛みもなく、自然にあの世に移行できるということです。家族としては傍らにいて、大声で呼びかけたり、強く手を握ったり、揺さぶったりすることもなく、ただ見ているだけでいいのでしょう。

そんな中村医師はどうされているのかと調べてみると、昨年他界されていることを知りました。息子さんがブログで報告していました。

父 中村仁一が永眠いたしました。 - 自分の死を考える集い開催スケジュール掲示板 (goo.ne.jp)

しかも、書籍で書かれていたように、医療にかかわることなく、自然死を実践され、穏やかな最後だったようです。どんなに立派な医師でも、自分の死を目の前にすると、取り乱すこともあることでしょう。その点、中村医師は本物だったわけです。たしかに、書かれている内容や文体、表現を読めば、ご本人の信念や迫力が伝わってくるものがありました。自然死について確信があった方なのだろうと思います。

「だ・である調」から「ですます調」へ

はてなブログからのメール案内で、ブログを「開設して2年が経ちました」と連絡がありました。ちょうど、文体を「ですます調」に変更しようか考えていたので、このタイミングで変えることにしました。このようなシンクロニシティ、いわゆる共時性に従うことを私はよくやります。

「だ・である調」を常体、「ですます調」を敬体というそうです。当初、ですます調を使わなかったのは、書きなれていなかったためです。論文を書くことが多かった自分にとって、だ・である調の方が書きやすかったといえます。また、ですます調のほうが文字数が多くなるというのもあったかもしれません。簡潔にコンパクトに書きたかった。

一方、だ・である調の難点は、文章が断定的になったり、威圧的になったりすことかもしれません。また、論文のような文体なわけで、書きはじめるとにき、かなり確実な論拠やある程度の参考文献がないと書けないような気にさせられることがあると思います。その点、ですます調のほうがブログを書きはじめるハードルは低くなることでしょう。

私自身の博士論文も目途が立ち、その他の論文執筆も落ち着き、今書いている専門書も共著によるQ&A形式の予定なので、ですます調です。このタイミングで気持ちも切り替え、本ブログの文体を変えてみることにしました。

ちなみに、もう一つのブログ「見えない世界を知る」は、左脳過多な自分のバランスを取る意味でも、ですます調で書き続け、1年以上経過しました。

見えない世界を知る (ameblo.jp)

いってみれば右脳の世界あるいは精神世界と、左脳の世界あるいは理論の世界を行ったり来たりしながら、心地よいポジションを探すということをやっています。しかし、そんなに都合よく、最適なバランスを維持し続けるということはできません。毎日が悩みと、焦りと、迷いの連続です。

今後、大きく書く内容が変わるわけではありませんが、文体を変えることで何か変化が起きるのかもしれません。印象が変わる程度かもしれませんが。