職人的生き方の時代

自分だけの生態学的ニッチで生きる

大企業の部長職は墓場への近道

私が1993年損害保険会社に入社したころ、部長や支店長という人は50歳から55歳が多く個室があり専用車もついていた。格が上の支店などは専属の運転手もいた。しかし、55歳を過ぎると役職定年ということで突然ポストがなくなり給与も下がったところで、このようないわゆるフリンジ・ベネフィットもなくなった。交際費や交通費もかなりの予算をもらい、飲むのが好きな部長などは急に寂しくなったことであろう。

ある意味で、この部長職の5年をどう過ごすかで、人によってその後の人生が大きく変わっていることが見て取れた。私の知っている大先輩は、部長になってからも実務の遂行能力を鍛えつつ、どうも55歳以降のことも常に想定していたようである。そして、55歳を過ぎたときに外資系企業へ転職し、その後、何度か転職し80歳まで25年間現役で働き続けている。

大企業の部長になると、ほとんど実務ができなくなる。できなくとなるというよりも、実務は部下にさせないといけない。自分は予算の執行管理や部内の人事、あるいは役員への説明などに駆り出される程度になる。そのようなことで一日が終われば、実務の力を鍛える暇はない。よって、ほとんどの人が役職定年になると戦力外となってしまう。そもそも、部長のときも戦力というよりは、部門間や部門と役員間の調整役あるいは潤滑油のような存在なわけで、何か尖った能力が必要なわけではない。

日本企業の場合、管理職になると本当に「管理人」になってしまうのはなぜだろう。私の場合、外資系の管理職の経験はあるが、管理人プラス実務家でなければいけないので、今考えると非常によかった。業界における最新の情報と技術を常に取り入れ、アップデートしなければならない。それに加えて予算の執行管理等もしなければならないので、戦力外になどなっている暇がない。自分も走り続けなければ部門が止まってしまうような感じで日々業務遂行する。対外的な折衝も自分でやるし、部下からの報告を聞くだけで終わりなどということもない。どんどん現場に足を運び生の情報に接する必要がある。

朝も早く起きて仕事がしたいから、接待でビジネスを取ろうなどいう発想もない。そもそも接待で獲得できたビジネスなど、接待をやめたらなくなるだけである。交際費はせいぜいランチ・ミーティングで消化したり、部門メンバーの意見交換の場を作るために業界の著名人を呼んでランチをしたり、ということに使った。

日本企業の伝統といってしまえばおしまいであるが、どうして管理職は実務をやらないのか不思議である。結局、管理職の役目が終わると急に活躍の場がなくなってしまうというのに。日本の管理職は、自分で自分の墓場に一直線に行くのを早めるための通過点のようなものである。

前出の55歳で転職して25年間現場で活躍している大先輩は、今でも現場で活躍している。顧客や同僚から頼られ続けている。生きがいという意味では、十分感じられるのではないだろうか。想像するに部長時代は月に100万円以上の交際費はあったのではないだろうか。もちろん、その下の課長へ配賦する分もあるので自分に残る分は限られていただろうが、それでも潤沢な額だったと思われる。海外出張もビジネス・クラスであっただろう。部下の人事や悩みの相談にも乗って、当人たちの未来のために尽力もしたであろう。

しかし、日本企業におけるそのような役回りはせいぜい5年間だったわけである。長いサラリーマン人生のたった5年である。その間、何もしなければ組織にとって荷物になると思ったのであろう。彼は実務能力を衰えさせることなく55歳の時に長年勤めた会社を去った。そして、その後も活躍し続け、今でも人の役に立っている。

日本の大企業の人事制度はある意味で残酷であった。ゆりかごから墓場までという比喩がピッタリの組織であったが、結局、墓場までが早すぎる。本来人間は80歳でも活躍できるにもかかわらず、55歳を過ぎたら墓場送りにするのが日本の人事制度であった。しかも、55歳を過ぎて役員になっても、また役員を退任したら元の木阿弥である。

コロナ禍で日本の人事制度も大きく変わらざるを得ないようであるが、これからは一人ひとりが組織人というよりも、独立した個人事業主となり、会社という法人と一対一の契約関係の中で生きていくことが求められているようである。

私が新入社員のときには、その会社に最後までいると確信していた。しかし、そんなうまい話はなかった。会社は従業員に相談することなく倒産するし、合併もする。おそらく、1993年に社会人になった私が2021年に社会人になる人への助言など何もできないと思われるが、逆説的に今の新入社員のほうがラッキーかもしれない。ゆりかごから墓場までの幻想などみるわけがないし、そんなことを期待もしていないであろう。必死で会社にしがみつく私の世代よりも、ある意味で、今の新入社員のほうがたくましく生きていくのではないだろうか。期待が裏切られるのは期待があるからであり、そもそもそのような期待がなければ期待は裏切られることはない。

私が贈りたい助言は、組織人を目指すよりも個人事業主の意識で組織に所属しておくことである。会社と従業員は対等な一対一の関係であり、面倒をみるとか面倒をみられるというような関係ではない。対等な一対一の関係が崩壊したときには、静かに次のステージに移るという関係性である。これからの企業社会の方向性はこのようになると思う。

83歳のおじいちゃんを叩きのめした世間

森喜朗氏が辞任したことで、多くの人はすっきりしたのだろうか。何か達成感は感じたのだろうか。

森氏の孫娘による記者との一問一答を読んだ。結局、83歳のおじいちゃんの発言をとらえて、みんなで叩きのめしただけにしか思えなかった。

女性蔑視を感じることがあるかという記者の質問に対して孫娘は次のように答える。

「まったくそんなことはないです。女性だけの家族なので。本当にそんなことは自分たちにとってはなくて、女性のことも大切にしているっていうふうに思っています」

世間との価値観と違っていたのではないかという問いには。

「たぶん、悪気があったわけではないと思います。もちろん発言は不適切だったんですけれども。現代の日本の、なんていうんですかね、ジェンダーレスのことは確かにそこまですごく理解していたわけではないと思うんです。ただ、決して蔑視する意識がなかったことは家族はみんな分かっています」

また、森氏の娘(孫娘の母親)の見解は次の通り。

「まあ、もちろんあの、おっしゃる通り娘からの視点からいえば今のそういうジェンダーレスの話を100%理解するのは年齢的にも難しいかなって。あくまでも83歳の自分の父という視点でみれば、もちろんそうなんですが、たぶん今の立場とかからは、それは許されないことなんだっていうことは、重々、わかっております。なので私たちからはそれしか言えないんです。今はそういう世の中の流れにもなっていますし」

人間は年を取ると赤ちゃんに返るという。たしかに、動きは遅くなるし、素早い反応もできない。場合によってはおむつも必要になる。新しことを学ぶには時間がかかるし、時代についていくことにも限界がある。50歳を過ぎた私でさえ、老眼で本を読むことがつらいときがある。昔のように大量に長時間読書して、新しい情報を入手するなど神業である。まして80歳を過ぎた老人の状況など推して知るべしである。

森氏の話に戻ると、どう考えても森氏の発言は、彼の思想、信条の吐露でしかなかった。せいぜい、「あのおじいちゃん、またやらかした」で十分だった。森氏は賄賂を受け取ったわけでもないし、だれかに暴行を加えたわけでもない。少なくとも何かしら法令に違反したようなことはない。しかし、世間は83歳の老人に、世界の基準からかけ離れているとか、性差別だということで叩きのめしたわけである。

世界の基準とはなんであろうか。世界経済フォーラムが発表しているGlobal Gender Gap Reportであろうか。そうであれば西洋社会の視点で作られ、自分たちが進歩的である、先進的であることをアピールするための道具になっていることも覚えておく必要がある。西洋社会の価値観で世界を覆いつくそうということであろう。アラブやアフリカ、一部のアジア世界からみれば世界基準でも何でもない。

森氏は性差別をしたというが、それは日本社会の構造の問題であって、森氏ひとりの問題ではない。森氏が国会議員の女性の人数を抑制しているのか、彼が上場会社の女性役員を減らしているのか、彼が就労の機会を女性から奪っているのか。それは森氏ではなく社会である。

私の専門分野に雇用慣行賠償責任保険(employment practice liability insurance)があるので、その視点で差別をみてみる。この保険は、不当解雇や雇用差別、ハラスメントなどで会社や役員が従業員から訴訟提起された場合の弁護士費用や賠償金・和解金を保険金で補償するものである。雇用差別の中には性差別も含まれ、実は、日本における保険事故は非常に少ない。一方、アメリカやヨーロッパの一部の国ではよく訴訟は起きる。最近ではアジア諸国も性差別の訴訟は多いが、日本は依然として静かだ。どういうことかというと社会が現状に満足している、あるいは現状を受け入れているということである。

定年制もそうである。アメリカ、カナダ、オーストラリアでは定年制が違法であるが、日本では定年退職することが当然だと思っている。年齢差別だなどとだれもいわない。日本社会は年齢差別を受け入れてきたのである。

最近では「間接差別」という難しい概念も登場している。「仕組まれた向かい風」といっているが、アメリカで黒人を差別することは違法であるが、あるポストの採用条件に学歴と知能テストを義務付けた会社が、間接差別であると訴えられた。たしかに、人種的には中立であるが、教育上差別を受けてきた黒人に対して間接差別になっていると裁判所は判示している。

日本であれば身長、体重、学歴、学部要件、転勤要件などを設定することで、女性に対する間接差別はあり得るであろう。女性のほうが身長は低いし、体重も軽い、経済学部や経営学部、法学部に女性は少ない、女性が子どもを産んだ後に転勤を受け入れるのは難しい。これも差別である。しかし意外にも日本社会は受け入れているのである。

このように差別の問題は複雑で深い。森氏の発言をとらえてボコボコにしたところで、差別の問題解決にはならない。むしろ、自分の考えを表明しただけで、あれだけ叩かれたらたまったものではない。表現の自由どころか、多くの老人は残りの人生を黙って、言葉を発することなく、この世を去っていく必要があることになる。私は戦前生まれの人の価値観や女性観に興味があるので、どんどん語ってもらいたい。

私自身、仕事で接してきた人たちを思い返すと、女性のほうが優秀だと思う部分が多い。今度は逆差別といわれるかもしれないが、女性は仕事そのものに価値を見出す傾向があり、男性は役職やポストに価値を見出し固執する。一般化するのは危険であるが、そのような傾向がある。

もし、構成員が10名のプロジェクトチームを作って最大の成果を出せという使命を与えられたら、6対4で女性のほうを多くすると思う。女性のほうが仕事そのものを高度化させようとか、業務の本質を見極めようという意欲が強いようにみえるからである。一方で男性は、自分の実力は度外視して役職やポストにこだわる。だから10名のプロジェクトメンバーのうち女性を多数派にしておき、男性に気づきや危機感を与えるほうがプロジェクト全体の成果があがることになる。女性のほうが実力を重視しているわけであるが、そういう意味では、性別よりも実力のあるなしで評価する社会が到来することが望ましいであろう。性別は個性の一つでしかないのだから。

森氏には気の毒であるが時代の流れとしてあきらめてもらうしかないのだろう。しかし、ある一人の人の発言をとらえて、つるし上げ、しかもこの流れを政治的に利用して優位なポジションを得ようとする人がいる社会は本当に恐ろしい。また、思想の自由や表現の自由を奪われた世界を想像するだけで気持ちが悪くなる。もっと寛容で楽しい社会を創造したい。

子どもの相対的貧困を解消するには

1990年代後半からNPOを通じて海外の子どもを支援してきた。最初の子どもはスリランカで、実際現地に訪問して本人にも会った。その後、2000年代前半に自分の所得も上がり、それではもう一人ということで二人の子どもを支援してきた。支援は一人の子どもに対して約5年程度続き、その地域での支援プロジェクトが終了すると、次の別の国の子どもの支援に移行する。ところが、クリスマスや誕生日のときにカードを贈る程度で、子どもたちとの親密感や、支援しているという感覚がどんどん薄れていき、なんとなく毎月お金が引き落とされるだけの状態が続いた。

そして、日本の子どもの貧困問題も相当深刻な状態になっていることが以前から気になっていたので、昨年思い切って海外の子どもの支援は一人に減らして、国内の子どもの支援を考えるようになった。

先日、高校生の長男の宿題のために購入した、渡辺由美子『子どもの貧困』(水曜社、2018年)を自分でも読んでみた。そして、渡辺氏が理事長をしているNPOを通じて、日本の子どもを支援しようと、子どもたちと話して決めた。

まず、貧困といっても絶対的貧困相対的貧困があり、発展途上国のように食べるものがなくて毎年餓死者が出るような絶対的貧困はわが国ではあまりみられない。わが国の貧困は、世帯所得が全国の平均の中央値に満たないことをいう相対的貧困である。よって、相対的貧困の家庭にいる子どもはみためでは貧困の中にいることをわからない。普通の服装をしているし、スマホも持っている。ほかの子どもと見分けがつかない。私の父親に戦争中の話を聞かされ、つぎはぎをしたズボンをはいて、毎日、日の丸弁当を持って学校にいっていた。お米がないときはカボチャをよく食べた、という話の世界ではない。

相対的貧困とはどのようなものか。渡辺氏によると、NPOが主催している無料の学習会にくる子どもたちの中には、昼食代が100円という予算の子どもがいるという。今どき、100円ではコンビニのおにぎりも買えないわけで、そのような子どもは100円の予算の中で駄菓子を買って済ませるという。また、フードバンク事業をしている団体から、おやつを提供してもらうことにしたら、テレビコマーシャルでみるお菓子をはじめて食べたという子どももいるそうである。当然、食費は主食であるお米やおかずに使うので、子どものおやつにまで回らない家庭がある。

この学習会に通う家庭の平均年収は150万円程度ということで、塾に通わせる余裕がない。このような家庭の子どもは学校の授業が終わったあとは、塾や習い事もないので予定が空白になる子どもたちがいるということである。そして、ひとり親のケースが多いので、複数の仕事を掛け持ちしていることが多く親も家にいないことになる。もちろん、親から勉強を教えてもらえる機会もない。

とにかく、ひとり親家庭の状況は非常に厳しい。非正規雇用でいくつも仕事を掛け持ちしても年間所得が150万円では、いずれは燃え尽きるであろう。そして、義務教育といっても、小学校入学時に、まず何万円もするランドセルを買い、その他の教材費もかかるし、宿泊学習や修学旅行の費用もかかる。中学生でも同じように費用がかかり、柔道着を購入、あるいは各種研修費がかかるであろう。

日本国憲法26条2項

「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。」

結局、義務教育は無償といいながら有償なわけである。スマホを持てるのだからそれくらい払えるとか、外食できるのだから貧困ではない、という厳しい声も聞かれるが、そもそも義務教育が有償の国の未来は明るいのだろうか。

図表は、OECD加盟国の子どもの想定的貧困率を示している。加盟国の平均を上回る貧困率の日本は、比較的貧富の格差が大きいと思われていたイギリスよりも高い率を示している。「一億総中流」ということばの響きは、はるか昔のことになってしまった。

日本はなぜこのようなことになってしまったのだろうか。多くの実証研究が示すところは、就職氷河期の世代が40代という社会の中核を担う壮年期になっても、いまだに非正規雇用であること。そして、20代の女性が多くのケースで非正規雇用の職しか得られない状況が続いていることが原因となる。当然、子どもには所得がないので、その親の雇用が不安定で低い所得であれば、子どもの相対的貧困も増えることになる。今後日本は、所得の再配分によってこの問題を解決していかなければならないであろう。若い世代に競争を強いて努力しろというのはお門違いである。努力しても報われない世界を創造したのは、そのようなことをいっている当人たちなのだから。多くの子どもたちを過酷な状況に追い込んでいるのだから、若い世代が高齢者を助けるなどというのは未来に向かっては幻想でしかない。日本として所得再配分の強化は避けられないであろう。

この原稿を書き終えた瞬間に、2021年2月11日の産経新聞「世界最高齢の総務部員は90歳 エクセル駆使「私に定年はない」」を目にした。大阪のねじの専門商社に勤務する90歳の玉置泰子さん。「私に定年はない。働けるかぎりは、いつまでも頑張る」、「テレワークや時差出勤などで通勤する人が少なくなっていますが、私は私。いつも通りの気分でバスや電車などに乗っています」とさらりと話す。90歳まで生きられるかどうか別にして、未来の子どもたちのためにも、玉置さんから大いに学ばなければならないと感じた。

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2050年あなたは稼いでいますか

私の場合、2050年に80歳を過ぎているので生きているかどうか微妙である。これから30年後の日本社会はどのような風景になっているのか。在宅勤務のおかげで住宅街の中にあるスーパーにも昼間の時間帯に行けることがある。そして、高齢者の多さに圧倒され、レジには高齢者の行列ができているのを目の当たりにする。その風景には活気を一切感じることはできず、確かなのは社会の衰退である。もしこのままの社会が続くとすると、2050年にはもっと活気のない風景になっていることであろう。それは社会の老衰であり死の世界とも表現できるくらい希望のない社会かもしれない。

内閣府が出している高齢社会白書のデータがある。図表をみると2050年には、75歳以上が2,417万人で、0歳から14歳が1,077万人である。私が生まれたのが1968年なので、1970年の棒グラフの緑の部分の2,515万人に含まれているが、当時と現在を比較すると子どもの数は約40%減であり、2050年には半分をはるかに下回る数になる。

とてもでないが、自分が高齢者になっているときには、自分の分は自分で稼いでいないと若い世代とその子どもたちに大変な迷惑をかけることになる。病気などして健康保険を使っている場合でもない。あの世に行くなら、一気に飛び込むくらいの勢いでいかないといけない。そんなうまく逝けるのか怪しいが。いずれにしても、自分で生きていく分の稼ぎは、80歳を過ぎても獲得しなければならないし、次の世代に残せる無形資産は残していかなければならないであろう。このデータをみて、甘えは禁物であることを肝に銘じ、80歳以降も社会に貢献できることを考えなければならないと思った。

一方、同じ高齢社会白書に今の高齢者の意識に関して意外なデータがあった。「高齢者の経済生活に関する調査」というのがあり、それをみると高齢者の暮らし向きに、ゆとりのある実態が浮かび上がる。60歳以上の男女1,755人への調査なので、サンプルが少ないかもしれないことは注釈として必要であるが、比較的余裕があることがわかる。たとえば、60歳以上の4分の3が経済的に心配なく暮らしているという。しかも年齢が上がるほど経済的な心配は減る傾向にある。この人たちの暮らしの主な基盤は年金だと思われるので、かなり潤沢な金額を受給していると予想できる。

しかし、今の若者や子育て世代で、経済的な余裕を感じて生きている人などそれほど多くはない。2014年度に内閣府で実施した「結婚・家族形成に関する意識調査」によれば、子育ての不安要素を尋ねる問に対して、「経済的にやっていけるか」(63.9%)に次いで、「仕事をしながら子育てすることが難しそう」が51.1%とある。経済的な不安が大きいことがわかるし、子育ての負担感があることがわかる。日本は子どもを産み育てるには非常に難しい社会になってしまったようだ。

これを今の若者や子育て世代の自助努力が足りないということで済ませられるのだろうか。このような発言が政治家や高齢者から聞くことが多いが、右肩上がりの経済成長と、1980年代後半から1991年まで続いたバブル景気で浮かれた世代のコメットであり、まったく響くことはない。自分たちだけラッキーだった時代を通過し、今の厳しい環境で生きている世代に「甘えるな!」とはいえないであろう。

今生まれた赤ちゃんは、2050年には30歳になり社会で活躍している。しかし、彼ら彼女らがまともな教育を受けて、しっかりとした社会人になり、日本を支える力となっているかどうかわからない。今の時点でさえ、子育てにはお金がかかりすぎて不安だという子育て世代の意見が多数派なわけで、これから生まれる子どもたちがそれなりの教育を受けて、しっかりと仕事をして稼いで生きていけるのかわからないであろう。

私にできることは、2050年にも自分が生きていくための所得は自分で確保できる方策を考えることであり、医療保険介護保険などを使わないように、物心両面でバランスをとって生きていくことであろうか。

ただ、そこはかとなく希望を感じることは、このコロナ禍のおかげで、古いシステムは完膚なきまでに破壊されて、その後の世界は比較的みんなが豊かにのんびり暮らしているのではないかということである。今はまだその全貌がみえていないが、これから数年で新しいシステムに切り替わっていくのではないだろうか。高齢社会白書のデータをみている限り、暗い未来しか想像できないが、その想像を超えるところに世界を変えるイノベーションがあることを予感したい。

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森会長にも「表現の自由」を

東京五輪パラリンピック組織委員会森喜朗会長が女性蔑視発言で批判を受けている。おそらく本人に悪気はなかったのだと思う。自分の思いを吐露しただけで猛烈な非難を受ける結果になった。そもそも森氏の年代であれば、あのような発言が本音の人が多いのかもしれない。受けてきた教育、生きてきたい時代背景が今と違うので仕方がない。そもそも、表現の自由の観点からは何も問題のない発言である。

戦前生まれの同じ年代の男性は、おそらく「このようなことをいうと非難されるのかぁ!」と驚き、襟を正した方が多いかもしれない。また、同じ世代の女性は、「現代社会では受け入れられない発言なんだ! なんと時代は変わったのかしら」くらいに思っているのかもしれない。そんなことはないという戦前生まれの方がいたとしたら、西洋社会に留学経験があるようなかなり進歩的な人であろう。ただし少数派ではないか。

かなり以前の話になるが、森氏と同じ世代の教育者の方が、アメリカのロサンゼルスで起きた黒人の暴動のニュースを視て、「黒人は程度が低いのだろうな」という発言をしているのを聞いたことがある。あの年代で大学も出て、教養もあるはずで、教育界でそれなりの地位についていた人の発言であったが、本人にしてみれば違和感のないコメントだったのだろう。

また、今回の森氏の発言に対して海外のメディアも一斉に批判の声をあげているが、過去の日本社会を知らない彼ら彼女らに的を射たコメントはできないと思う。私がインドのある地域に女児殺しの習慣があること、インドネシアで同性愛が有罪でむち打ち刑になること、ムスリムの女性がベールを身に着けおしゃれの自由がないことなどに、何の非難の声もあげられないのと同じではないだろうか。もちろん、もっと寛容な社会で自由を謳歌できたらよいのにとは思う。自分の娘には日本に生まれてよかったね。日本が息苦しければヨーロッパに住んでもいいよ、くらいはいうと思うが、ただそれだけである。

結局、森氏にしても、くだんの教育者にしても、自分の知らない世界、みえていない世界、経験していない世界の基準で発言はできないわけなので、わたしは「仕方がない」で片づけるしかないと思う。とりあえず、それしか方法はない。若い女性アナウンサーの中にも、「呆れる」とか「うんざりする」という声も聞かれるが、中立的な立場にいる私から申し上げられることは、「あなたとは「違う」教育を受け、世界を生きてきた人ですよ。それ以上でもそれ以下でもないと思います」というだけかもしれない。

まず、私たちは声高に批判をする前に、そのような人をわが国の総理大臣にした人は誰なのか、その後も政治経済に影響力を維持できたのは誰のおかげなのかを考え、次の選挙にはかならず行くこと、小さなことから寛容で進歩的な社会を作ることに注力することではないだろうか。少なくとも誰にでも表現の自由はあり、自分の好き嫌いをいう権利があり、その権利を必死で守る必要があることを忘れるべきではないと思う。

「未来への投資」を忘れた日本の高等教育

酒井吉廣「コロナで待ったなし、国立大学の改革を支える自主財源の拡大」金融財政事情72巻3号(2021年)を目にした。昨年、東京大学が大学債を発行したのをきっかけに、大学の独自経営には自主財源の拡大が必要ということである。

世界の大学債は、残高ベースでアメリカが世界の約7割を占めるそうである。その事実をみれば、アメリカの大学は資金調達に積極的で競争原理の中で戦っており、だから世界ランキングにも常に上位にくるのだろうと思う。

その真似をして東大も大学債を発行するということであるが、なぜ国立大学が借金をしなければいけないほど、日本の高等教育が落ちぶれてしまったのかと思う一面もある。

あらためて、東大の財務諸表をみてみたが、民間企業の資本金にあたるところに「政府出資金」があり約1兆円と記載されている。ちなみに、学校法人としての私立大学の資本金は「基本金」というようである。そして、東大の大学債の発行額が200億円で期間が40年ということであるが、政府が200億円増資して政府出資金を1兆200億円にすることで済むことだと思った。

そもそも、40年の償還期限が来る頃に、大学債を発行しようと意思決定した人も、その大学債を購入しようと意思決定した投資家もこの世に存在していないのではないか。格付情報センター(R&I)によると東大の信用格付けがAA+で安定的ということであるが、国家が債務不履行を起こすことはあるのだから、国立大学であれば破綻しないとは言い切れない。

東大にとって大学債はそもそも借金であり、いずれは返さなければならないお金である。借りたお金をもとに儲けて借りた金額以上の額を投資家に返済する必要がある。投資家は金貸しをしているだけで慈善事業ではないので、期限には金利を付けて返してもらわなければならない。このような構図であるが、国立大学の本来の資金調達方法は国が資本として投入すべきものではないかと思った。

なぜ、日本の大学もアメリカやイギリスのように自由主義経済の中で運営されなければならないのだろうか。各大学が気にする世界ランキングもイギリスのタイムズ紙のもので、彼らが英語圏以外の大学を評価できるわけがないように思う。しかし、日本人は日本の大学には競争力がなく、世界ランキングにも上位に入れないと嘆く。

しかし、そもそも英語圏の雑誌が作ったランキングなので、英語圏に留学生を呼び寄せるマーケティングの道具でしかないはず。よって気にする必要などまったくない。また、競争力が必要というが今の日本の大学をみれば不毛な競争の中で疲弊してしまいイノベーションなど起こりようがないと思われる。無駄が多く回り道する余裕があるときにこそイノベーションは起こるのであり、毎日、研究費を獲得するために企画書や申請書ばかり書いているようでは、イノベーションが起こりようはない。

そもそも政府が増資せずに国立大学に大学債を出させるということは、大学に自立して稼げということをいっているのだと思う。大学債は社債と同じく、いつか決められた利回りを付けて償還期限に投資家に返済しなければならない。よって大学は儲けるということが前提で、ビジネスとして運営を考えろということであろう。しかし、本来高等教育については、国が「未来への投資」ということで資金提供すべき分野のはずである。日本の場合、国がその役割を放棄したことになる。ここでも自助努力が必要ということであろう。高等教育をビジネスと考える発想はアメリカからきたものとしか思えない。

未来への投資によって高等教育を受けた人が社会で活躍して、いずれは税金を支払ってくれる存在になる。今、優秀な人材を育てる投資をして、その人たちに稼いでもらい、世界で事業展開してもらい、将来その投資資金を税収という形で回収する発想が今の日本にはない。あるいは、その優秀な人材が新しい事業を次々起こして日本経済を活性化するという未来がみえていない。結局、今しかみていない人には未来への投資はできない。競争原理、自由市場経済、自己責任、自助努力などを格好のいい理念だと思っていれば未来への投資という発想にはならないのであろう。

世界をみればドイツやフランスの大学では授業料が不要で登録料のみで済むし、ノルウェーの大学なども留学生を含めて授業等は無料ということである。あらゆる人に教育を受ける機会を平等に提供し、未来の国を担う人材を育てようという思想があると思う。あるいは、世界に貢献できる人材を育てようということかもしれない。そこには金儲けの発想は微塵もない。

前出の酒井氏は、日本の大学は授業料が安く、寮費などもの生活コストも非常に低いという特徴がある、という。アメリカやイギリスしかみていない有識者がいう典型的なコメントかもしれない。「海外=米英」になっているとしか思えない。アジアや中東、せめてヨーロッパ大陸ぐらいみてほしいと思う。

 

新しい生活様式「3つの楽」のすすめ

いつまでたっても明るいニュースがなく、毎日飽きもしないで「コロナ、コロナ」である。このような閉塞した社会に対して、どのような視点をもって対処したらよいのか。私の場合、3点あり、①直感を楽しむこと、②多様性を楽しむこと、③曖昧さを楽しむこと、以上である。これらは「3つの密」ならぬ「3つの楽」であるが、一見過酷な現状をうまく乗り切る重要な概念としている。

すなわち、科学も誤ることがあると認識し自分の直感も大切にすること。異なる意見や考えも大いに取り入れ多面的で多様な分析を尊重すること。そして、どうしてもわからないことは曖昧さにも耐え受け入れることである。

世の中の趨勢がおかしくなっていく中で、今の騒動に懐疑的な考えをもっている人が増えつつあると思う。そして、私自身の考察について「自分も同じように考えていたのだよね」という人が多いのではないかと思いはじめた。どうもみんな薄々気が付いているけれども、周りがそのような雰囲気ではないのでいい出せない、という人が多いのではないか。

最近、本屋で小林よしのりゴーマニズム宣言SPECIALコロナ論』(扶桑社、2020年)に接した。手に取って読むと笑いが出た。マスクをしていたので、ニヤニヤしている表情は誰も気づかなかったかもしれない。そして、他に買う予定であった書籍をやめて、『ゴーマニズム宣言SPECIALコロナ論2』(扶桑社、2020年)と一緒に2冊購入して読むことにした。

自宅で読みはじめて驚いたことがあった。それは、小林氏と考えがある部分で似ているところが多かったということである。このような書籍があることをネットで知っていたものの、マンガに縁がない自分にとっては購入する必要はないものと思っていた。しかし、本屋で目にした偶然から、書籍の内容も単なるマンガではなく、医学、歴史、哲学、政治、経済、法律など幅広く丹念に情報を調べて描かれていることが理解できた。

もしこの世の中にアカシックレコード、あるいは真実らしい情報が詰まっている異次元が存在するとするなら、おそらく同じ情報に接していたのかもしれない。ある直感を得てアクセスする次元に同じ情報があったという仮定も成り立ちうると思った。

そして、一つの希望が芽生えた。意外に多くの人が同じような直感を得ているのではないか。ただ、今は表現の自由を主張するのもさしさわりがあるので、みんな沈黙を守っているだけなのではないかということである。「隠れキリシタン」ならぬ、「隠れポジティブ派」とでもいおうか。もしそうであれば、どの程度のポジティブ派がいるのか興味深いところである。

おそらく、約1割弱がポジティブ派ではないかと思う。理由はニュースに対する世の中の反応からそのように考え得る。たとえば、自粛要請に従わないこと、マスクをしないこと、会食をやめないことなど、これらのニュースに対してほとんど批判的なコメントがあがっている。それ自体に注目すべき点はないが、批判的コメントに対して親指が上を向いている「いいね」の意思表示が9割以上で、親指が下を向く「同意しない」意思表示が1割以下であることに注目すると、ネガティブ派とポジティブ派の割合は想像できる。

そして、もしポジティブ派がある一定割合いれば、その人たちが声を上げるだけで世の中の流れは大きく変わるように思われる。その人たちが隠れているだけなので、顕在化するだけよいのである。私はそのタイミングが2021年の春ではないかと思った。日本企業も3月末決算のところが多い。このようなことを継続していられないとう思いが経済界にも蔓延するであろう。1割以下のポジティブ派が2割まで増えれば、まるで腸内の善玉菌の現象と同じように、社会のバランスが取れるのではないだろうか。

100年前のスペイン・インフルエンザの史実を詳細に記録した、速水融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』(藤原書店、2006年)によると、パンデミックが収束した要因はわからないという。医薬でもなければ、ワクチンでもなく、あるとき、まるで役目を終えたかのようにすっと消滅している。その後、関東大震災日中戦争、太平洋戦争のような大きな出来事のために、パンデミックがあったという人々の記憶さえも忘却の彼方へ消えてしまった。よって、コロナも役目を終えたと思ったときに消えるのではないだろうか。

自分は普段風邪を引いたときに3日断食をして治すようにしている。日ごろから朝抜き断食で一日二食の生活を送っているので3日間の断食は慣れている。本来は医師の指導を受けながら3日断食をしないと危険なようであるが、幸い私の場合は問題が起きたことはない。

今の世界の状況は、まるで健康を回復するために3日断食をしたが、まだ回復していないということで断食を継続し、いよいよ自分の命が危険な水準まできてしまった状況に似ている。ここで少しずつ食事を取って普通の生活に戻していかないと、ますます死に近づいていくことになる。しかし、人類もさすがに気が付き、再び食事をとりだすのではないか。

自分にとっての重要なポイントは、人生を楽しむということに尽きる。感染症に怯えて生きていてもおもしろくない。与えられた条件の中で楽しむということである。

自分の中で整理した概念を三つ再掲しておく。①直感を楽しむこと、②多様性を楽しむこと、③曖昧さを楽しむこと、以上である。これらは「3密」ならぬ「3楽」であるが、この三つのことを心がけていれば、意外にコロナ禍でも人生を楽しめるものである。

おそらく、今の状況を楽しんだ先には格段に進歩した世界があり、柔和な人生が待っているような予感がする。私の思い過ごしかもしれないが、もし賛同いただける方が実は大勢いたということであれば、それはそれでうれしいことである。