スペシャリストのすすめ

自分だけの生態学的ニッチで生きる

基本的人権をもう一度考える

PCR検査を受けたときに医師から受け取る書面がある。題は「新型コロナウイルスの検査とご自宅での注意事項(○○市保健所からのお願い)」とあり、「新型コロナウイルスの検査結果が判明するまでは、外出を控え、人との接触を避け、ご自宅での療養をお願いいたします」「十分な休養をとり、バランスのよい食事をとってください」と記載されている。

もし家族がいない一人暮らしの方であれば、自宅で療養していれば買い物にも行けないのでバランスのよい食事など取れないのにと単純に思った。「お願い」とあるが、その書面の通りに従うのであれば行動の制限を伴い、憲法で保障されている身体的自由権がかなり制約される内容である。

この機会に私たちは基本的人権というものをもう一度検証するときだと思われる。こんなに良い素材はない。当該書面には「新型コロナウイルスの検査は、感染症法に基づいて行われています」ともある。しっかり特別法に根拠があることを強調している。

このようなときわれわれは検査を拒否する権利はあるのだろうか。もし強制入院や隔離となった場合に抵抗する術はあるのだろうか。この特別法は基本的人権を規定する憲法に違反していなのであろうか。このような素朴な問いに対する答えは、実は誰も議論していないからわからないということではないだろうか。法律の専門家ですらも、現下の状況で「表現の自由」が奪われて発言できないということだとすると、日本社会は致命的な過ちを犯す可能性すらある。

緊急事態宣言というものに基づき、飲食店の営業時間は短縮され、不要不急の外出も控え、午後8時以降の外出も制限される。さらに、時差通勤や在宅勤務の要請も出ているが、これらの要請に従えば、われわれの行動は極度に制限されることになる。このような制限する根拠法はあるのだろうか。実際には何もなく、ただのお願いになる。

今、感染症法の改正も検討され、入院を拒否したものには罰則も想定されているようである。このような流れのなかで基本的人権に関する憲法議論がほとんど出てこないのが不思議である。こんなことをしていいのかという意見をほとんど聞かないがなぜだろうか。おそらく、法学者も声を上げにくいのではないか。憲法9条であれだけ激論を交わせる憲法学者も今回ばかりはなぜかおとなしい。

私は憲法の知見がそれほどなく、学生時代も基本書を通読したこともない。条文を読み通したことはあるが、憲法の素晴らしさを感じるほど解釈には通じていない。しかし、このようなときだからこそ、もう一度基本的人権の意味を考える良い機会である。このようなことがなければ憲法に関する書籍も論文も手に取ることはなかったかもしれない。

まず、憲法18条において「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない」として身体的自由権(人身の自由)が保障されている。また、憲法31条において「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない」とし適正手続の保障について規定している。ここでも明らかになるが、緊急事態宣言は法律の定める手続きによっていないので、緊急事態宣言によって人々の行動の自由を制限できないことになる。よって、少なくとも前述の保健所からのお願いには何も拘束力がないので、家の中に閉じこもる必要はない。

PCR検査をして陽性者を隔離するというのはどうだろうか。なんの根拠もなく強制入院や隔離をすれば間違いなく違憲である。

一方、感染症法という特別法があり、1999年に施行されている。そして、感染症法46条1項において「都道府県知事は、新感染症のまん延を防止するため必要があると認めるときは、新感染症の所見がある者に対し十日以内の期間を定めて特定感染症指定医療機関に入院し、又はその保護者に対し当該新感染症の所見がある者を入院させるべきことを勧告することができる」とある。意外にも都道府県知事の判断で入院勧告ができてしまう。

また、2項においては、「都道府県知事は、前項の規定による勧告を受けた者が当該勧告に従わないときは、十日以内の期間を定めて、当該勧告に係る新感染症の所見がある者を特定感染症指定医療機関に入院させることができる」となっており、新感染症の所見があるものに勧告し、それに従わない場合は命令することができることになっている。

ここでいう「新感染症」の定義は、感染症法6条9項にあり、「「新感染症」とは、人から人に伝染すると認められる疾病であって、既に知られている感染性の疾病とその病状又は治療の結果が明らかに異なるもので、当該疾病にかかった場合の病状の程度が重篤であり、かつ、当該疾病のまん延により国民の生命及び健康に重大な影響を与えるおそれがあると認められるものをいう」と定義される。

ここで、偶然インターネットから入手できた、1998年5月1日付けの日本弁護士連合会「感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する不立案に対する意見書」があったので読んでみて驚いた。感染症法の立法の不備は法律の専門家の目からみると相当数あることがわかる。

意見書にそって問題点を指摘すると、まず「新感染症」の定義に「感染力が強いこと」の要件が欠落しており、感染力が弱くても「新感染症」の定義に含めることが可能である。次に厚生労働大臣ではなく、身体を拘束するという重大事由であるにもかかわらず、都道府県知事が患者に対して入院勧告および命令ができる。そして、新感染症患者であるか否かの判断は誰がするのか明らかでない。さらに、いきなり10日以内という長期間の拘束が可能であるが、新感染症は医学的知見の蓄積がないのであるから、72時間以内とすべきであるという。そして、強制入院等の規制が本来は必要なかったことが後で判明した場合の当該患者に対する適正な補償の規定が存在していない。また、健康診断・入院を勧告するに際して、十分な説明と同意が当然の前提であるが、その旨の記載が法律に欠落している等、かなりの数に上る改善提言がなされている。

法律もしょせん人間が作るものなので完璧ではないし、立法の実務を担当する官僚も忙しく限られた時間の中で条文を作成するので、どうしても不備はでてきてしまう。しかし、感染症法を冷静に読めば、日本弁護士連合会が指摘するように、定義に曖昧さがあったり患者の人権や適正な手続きが保障されていなかったり、運用次第では相当危険な法律であるともいえる。

それでは、成立してしまった法律に対してわれわれは無力なのかというと、そのようなこともない。憲法81条には違憲審査権が規定されており、「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である」として、既存の法律が違憲であることを主張する機会は確保されている。そして、過去にハンセン病患者の隔離規定の違法性が認められたり、改正前民法733条に規定する再婚禁止期間が男女平等に反するということで違憲判決が出されたりしている。そして、「処分」には行政機関の行為のみならず、立法機関や司法機関の行為、裁判所の判決についても処分にあたるので、われわれができることは意外にあるはずだ。

しかし、残念ながらわが国では、フランスのように次々と行政訴訟の提起がなされるような法文化がない。司法へのアクセスが悪いということもあるが、そのような訴訟にエネルギーを使いたくないということもあると思う。よって、多くの人は沈黙を守ることになっている。

しかし、法律の専門家が沈黙を守り続けているのは残念ではないか。憲法はわかるが感染症法については不備を指摘できるまで熟知していない、ということかもしれない。このままでは、勝手に検査をして不当に拘束されるようなことが起きかねない。しかも、後で検査結果が間違っていました、あるいは新型コロナウイルスの感染力は想定されていたものより弱かったです、というようなことが起きても補償される規定がないのである。

このような背景を踏まえると、われわれ一市民としてもう一度基本的人権というものの大切さを認識し、検証したほうがよいであろう。おそらく将来生じるであろう別の論点、たとえば憲法9条改正議論などでも応用が効いて役立つこともあると思われる。このような素材を提供してくれる感染症にも感謝し、転んでもただでは起き上がらない精神で、人権というものを考えてみるのも必要であろう。

時空を超えて正しい説はあるのか

新型コロナウイルに関しては日々刻々と新しい情報がはいってくる。1日前にいっていたことが今日変わることもある。世界中の研究者が日夜努力しているおかげで、ウイルスの正体も徐々に鮮明になってきている。

そして、これだけ変化の激しい状況にあって、あることに対する断定や価値判断に基づいた決めつけが、いかに自分の信用を傷つける危険があるのかも明らかになった。勇気がないから断定できないともいいうるが、謙抑的な姿勢を維持しつつ慎重に発言することも大切であるということであろう。

時間を超えて正しい説などなさそうであるという事例にPCR検査の議論がある。当初は全員にPCR検査を実施して陽性者を隔離し、陰性者で経済を回せという議論もあった。何となくすっきりして、格好の良い議論で、一つの正解のように聞こえる部分もあったのであろう。しかしその後、良識ある専門家によって多くの批判がなされることになった。

PCRの感度はせいぜい7割程度でそれほど高くはないという事実が指摘されだしたのである。峰宗太郎=山中浩之『新型コロナワクチン知らないと不都合な真実』(日経BP、2020年)にわかりやすい例が出ているが、仮に東京都民が1,000万人だとしよう。そして、全員検査を受けたとしてPCR検査の陽性率は5%程度なので、陽性者が50万人になる。この50万人のうち30%の15万人が偽陰性になるということである。すなわち、東京都だけで15万人の偽陰性者が出て、その人たちが感染している可能性があるのに経済を回すために働き、普通に日常生活を送ることになる。

〔例〕

1,000万人(東京都人口)×0.05(PCR陽性率)×0.3(感度)=15万人(偽陰性者)

結局、PCR検査は陽性か陰性かを見分けるには役立たないが、医師が患者の症状を診察し、陽性と疑わしいという人を確定することにしか使えないということである。よって、PCRを全員にというのは、検査至上主義を信じる人の誤謬ということになる。

またもっと深刻な問題は、PCR検査が陰性の人を正しく陰性だと判断できる割合(特異度)は99%ということである。仮に前述の例の通り陽性者が東京都民で50万人いたとする。そして、残りの950万人が本当に陰性だと仮定する。この950万人もPCR検査を受けているわけなので、950万人のうち1%、すなわち10万人が感染もしていないのに陽性と判定されてしまうことになる。

〔例〕

〔1,000万人(東京都民)-50万人(感染者)〕×0.01(特異度)=10万人(偽陽性者)

こちらのほうが問題で、この10万人が本当の陽性者と同じ施設に隔離されたらどうなるだろう。そもそも憲法が保障する人身の自由を侵害したことになるので憲法違反ということにもなる。そして、PCR検査を受けたところで陰性の証明にも陽性の証明にもならないということである。

毒にも薬にもならない検査をいくらやっても混乱を招くだけであり、膨大なコストもかかり、人的資源も無駄にしてしまう。その結果、人権侵害を招くこのような検査至上主義には、明らかに異議が唱えられだした。そのことによって、結局はPCR検査心棒者の信用は明らかに崩壊したといえよう。このようにたった1年も経過していない間に、新たに事実が次々に出てきて、自分の知らない世界がみえだすと、いかに物事に対する決めつけが危険かということがわかる。

次に空間を超えて正しい説はなどなさそうであるという事例に、海外の事例の日本への当てはめがある。ニューヨークやロンドンで起きたことが、そのまま日本にも当てはまるという断定である。これもどうやら間違いであったことが明らかになり、地理的な違いによって正しい説は一つではないようであるという典型例である。

この点まだはっきりしないが、どうやら長年住んでいる土地によって、人がもっている免疫に違いがありそうということである。その点のみが原因で、海外と日本の結果が異なり間違っていましたというのであればまだ弁解の余地がありそうであるが、日本の医療体制とアメリカの医療体制に大きな違いがあること、劣悪な環境で生活する貧困層や移民が多いことなどは考慮に入れていなかったようである。また、国民性によるパーソナル・スペースの違いも影響しているかもしれない。あるいは気候も影響しているかもしれない。

とにかく、「海外では」とか「欧米では」というコメントは、議論や思考を単純化できるので便利ではあるが、論点を簡素化しすぎる傾向があるので注意しなければならない。そして、多くの専門家が「海外では」といっているときには、アメリカとせいぜいイギリスくらいしか頭にないといってよい。

自分の専門分野の話でも、アカデミズムの世界で権威のある学者が「海外では一般的に○○である」という発言をすることがあるが、明らかにアメリカしかみていないコメントであることがわかる。グローバリゼーションといっても、アメリカとヨーロッパでは制度が大きく異なるし、ヨーロッパでは国によって、地方によっても多くの異なる点がある。ましてや、他のアジア諸国やアフリカ諸国では異なることが山ほどあるであろう。

そして、アメリカのやり方を日本でも採用すればよいといっても、アメリカは連邦国家で、そもそも国の成り立ちが異なる。州によっても医療制度や法制度が異なるので、各州で異なる対応がなされている。PCR検査を全員にというような対応をしているのはニューヨーク州ぐらいで、他州はまた異なる。そもそも日本のような健康保険制度のない国と同じ方法を採用しろというのも無理であろう。グローバリゼーションで世界が均質になった、あるいは均一になったなどということ決してないことを忘れているとしか思えない。

結局、時間と空間を超えて正しい説があるかというと「ない」というのが結論になる。そもそも正し結論が一つというよりも、いくつかの正しいと思われる解があるということではないだろうか。新型コロナウイルスに関する新しい事実がこれから明らかになっていくであろうが、すべてを解明できるようにはならないであろう。すべて理解されるのは、1,000年後とか2,000年後かもしれない。少なくとも100年前のスペイン・インフルエンザのことでさえ、全貌がまったくわかっていなのだから。

科学の限界を知り判断する

中世ヨーロッパの大学において学ばれていた学問の基本は、神学、法学、医学である。この三つの学問は現代における心理学や経営学、工学などと比べると圧倒的に長い歴史を積み重ねてきているといえる。しかし、その事実が学問として高度であるとか、社会の発展に寄与しているかというと、必ずしもそうとはいえない。伝統があるだけに保守的であり、新しい考えや切り口を受け入れられないという側面もあることは否めない。

また、多くの人はこれらの学問の専門家といわれる人の発言は、よほどのことがない限り素直に受け入れる傾向がある。なかなか一般人には理解できない用語が使用され、複雑な理論や体系が構築されている学問なので、専門用語を多用されて語られると反論の余地がなくなってしまう。

そのような意味で、これらの分野の専門家は、ますます一般の人にはわからない領域に入り込んでいき、自分にとって心地よい安全地帯を確保することになる。こうなると、他者からの批判や指摘はかなり難しくなる。

しかし、これらの学問も現代からみると多くの誤りを積み重ねてきている歴史があり、学問あるいは科学としての限界もあることがわかる。

振り返って、現在のコロナウイルスに関する議論に関しても、これから多くの誤りや、不完全な議論が積み上げられていたことが明らかになっていくであろう。その点を踏まえて、われわれは専門家の発言や論述を慎重に受け取っていけなければならない。無批判に受け入れるのは危険であるし、せっかくの人生を台無しにしてしまう恐れもある。ただ、誤解や不完全な議論があるからこそ、科学を進歩させようという人々の意欲や社会を発展させようという推進力が生まれてくるわけなので、その意味で誤りや失敗が悪いわけではない。それは人文科学、社会科学、自然科学を問わずあらゆる科学に共通のことである。

そこでまず、神学の一例を顧みることにする。中世には魔女狩りがあった。当時の状況は、森島恒雄『魔女狩り』(岩波新書、1970年)に詳細に描かれているが、深遠な神学的議論をするべき異端審問所では、簡単な問答が行われるだけで当人が魔女かどうかの判断がなされていた。「お前は魔女になってから何年になるか」「魔女になった理由はなにか」「悪魔にどんなことを誓約したか」などの尋問があり判定されている。「存じません」「わかりません」としか答えようがない質問であるが、最後は拷問による自白が待っており、正確な記録は残されていないものの、30万人あるいは300万人という無実の人が魔女裁判によって処刑されたのである。しかも、魔女とされ当人が処刑された後に残った財産は、しっかり財産目録を作成して、財産管理人が接収していたということである。

そのとき神学は無力であったわけであるが、それ以上に神学が魔女裁判を正当化したというところに、学問について何とも救いようのない事実をみせつけられる。ローマ教皇という権威に寄り添う神学者たちの道義的責任のなさ、および学術的な未熟さというのは、当時の状況では仕方がなかったのであろうか。

次に法学の一例で、日本では大日本帝国憲法のもとで身体的自由権の保障は十分ではなかった。治安維持法体制下の拷問や恣意的な身体の拘束などの人権侵害はあとを絶たなかった。この悪名高い法律は、共産党員のみならず、政府の方針に反する人々を拘束し拷問にかけるということを容易にした。著名な事件としては『蟹工船』を著した小林多喜二昭和8年に29歳で特高警察の拷問の末殺された。

このとき法学者が果たした役割はなにか。被疑者を弁護しようとした勇気ある一部の法律家を除き、多くは「沈黙」を選んでいる。しかし、沈黙であれば当時の状況から理解できるが、権力に寄り添いむしろ正当化する議論を展開した著名な法学者たちもいた。権力を権威で補強することで、どれだけ多くの人が拷問を受けて無意味な死を遂げたのであろうか。

そして最後は医学である。今の医学は西洋医学が主流であり、中国医学やアーユルベーダ医学、イスラーム医学など傍流になり、たとえ実効性があってもほぼ無視されるし、論文を発表しても参照されることもない。最近はホリスティック医学なども注目されるようになっているが、まだ市民権を得るには至っておらず、この辺にも限界が感じられる。そして多くの人は、結局、○○大学医学部教授、WHOの顧問、ノーベル賞学者などの肩書にフォローすることになり、自分で考えることをあきらめてしまう。

過去に狂牛病HIVエボラ出血熱、ペスト、ハンセン病などセンセーショナルに伝えられた感染症は枚挙にいとまがない。当初いずれも医学が適切に対処できたかというと必ずしもそうではない。医学の力にも他の学問と同様に限界がある。

しかし、これらの病気は数ある病の中の一つでしかなくなった。100%有効な治療法が確立されているわけでもない。でも、すでに “one of them”になった。新型コロナウイルスも“one of them”になるのにそう時間はかからないと思いたい。もしコロナ禍が情報災害と考えれば、ちょっとしたきっかけさえ得られれば収束は意外に早いのかもしれない。

いずれにしてもコロナ禍は歴史に残る重大事件となる。様々な医学的議論があり、最新の医学検査や難しい数理モデルも登場している。最先端の科学を使って何とか混乱を抑え込もうと努力しているが、神学や法学という伝統的学問と同じように、医学も硬直化しており、現在の異常な事象にうまく対処できていないようにみえる。多くの人が権威や権力にすり寄る姿をみると致し方ないのかもしれない。

しかし、日本では幸運にも新型コロナウイルス感染症対策分科会の主要メンバーに、そのような権威主義の人は少ないようである。現場で実務をこなしいろいろな経験と失敗を積み重ねてきた立派な経歴の方々のようである。たしかに、プレゼンテーション能力に欠けるかもしれないが、そのような技術を要求される人ではない。むしろプレゼン力だけで実質を伴わない自治体の首長が活躍していることのほうが懸念される。

そして日本の現状はある意味、一つの方向に突進してしまうことなく絶妙なバランスを維持しながら、この難局に対処しているともいえるのかもしれない。だからこそ権威主義の人たちからは実力派の専門家に対して手ぬるいと強烈な批判があがるのかもしれない。しかし、時間が経過すればその評価は定まることであろう。私はその時期が2021年の春でがないかと期待している。今はできるだけ現場に近い人の意見に耳を傾け、自分で解釈して自分で判断していくことが重要な時期だと思う。科学や学問というものに過大な力を与えるときではないと思う。

「本物」を判定するリトマス試験紙

コロナ禍はリトマス試験紙の役割をもっている。おそらく多くの人がコロナ禍のおかげで本当の友人をみつける、あるいは「本物」を見抜くことの判定にコロナ禍は役立っているように思える。

たとえば、何気なく接していた友人が、世の中の状況について自分では想定していなかった意外なことを言い出したり、予想もしていないこだわりを持っていたりすることに気が付くことがある。自分のことしか考えられなくなり、他者への思いやりや配慮がほとんどなくなっている人も見分けられるようになった。人は追い詰められたときにこそ本性がでるというが、これほど顕著な例もないかもしれない。

あるいは、有識者と思われていた人の発言が意外にも浅薄であったり、表層的であったりすることもあり、それこそ誰が「本物」であるかもつまびらかになった。いかに私たちは肩書や権威に頼って人を判断し、勝手に評価しているのかも明らかになった。さらに、今のような危機的な状況で、誰が浮足立って機会主義的に私的利益を優先しているのか、誰が公共の利益を優先して自分の経験と知識を最大限に活かそうとしているかみえてきた。

医師についても普段立派なことをいう信頼できそうに思われていた人が、単なる素人でしかなかった、ということでがっかりするケースもあるようだ。ある人が熱はないが軽い咳がでるので信頼している病院の医師のところにいったところ、コロナではないかということで、看護師を含めて大騒ぎになったケースもある。慌ててバイオテロにでも対処するような防護服を身に着けだし、急遽唾液を採取し検査に回したという。検査結果は陰性で何事もなかった。結果が出るまでは患者当人の行動は至極制限されて不便この上なかったという。これなどは、しっかり患者を診ていない証拠である。「本物」の医師は、患者の顔色をみただけで病気の重症度が判断できるといわれる。また触診も重視する。患者の顔もみず触診もしないで医師が務まるのであれば、早晩彼ら彼女らはロボットやAIに取って代わられることになるだろう。仮に世の中の多くの医師がその程度のレベルの熟練度しか持ち合わせていなく、しかも一般の患者数も減っている状況で、赤字経営の病院はますます増えて淘汰されていく。コロナ禍は、まさしく本物の医師を選別することにも寄与しているといっていい。

また、組織の姿勢も明らかになった。ある医師が医療崩壊を回避するために、コロナの指定感染症第二類というのを、インフルエンザと同じ第五類にするべきだと提言したが、所属組織から圧力がかかりそれ以上の発言は許されていないようである。医療現場の正常化のために勇気を持って正論を述べた医師の「表現の自由」でさえ奪う組織というものがある。この医師の提言に耳を傾ければ、コロナ対応は決して医療現場の総力戦になっておらず、保健所と指定病院医療機関(351医療機関1,758床)の他一部の受け入れ可能な医療機関での局地戦でしかないこともわかる。それらの医療機関への兵站も不十分な状態のようである。まるで日本の医療機関が総力戦で医療崩壊を食い止めているように報道されるが、事実は異なる。

あるいは、在宅勤務が増えて従業員を信用していない経営者は、監視を強化しようとした組織もあるという。これから、どこでどのような組織で働けば自分は幸せになれるかの労働者にとって判定材料は出そろった感じである。コロナ禍を逆手にとって積極的な投資や経営判断ができない経営者は、やはり退場していくことになり、残るのは本物の経営者のみになろう。

このように考えると、コロナ禍はいろいろな素材をわれわれに提供してくれていることになる。次の時代、誰と一緒に仕事をするのか、どのような組織で働くのか、どのような専門家と協働すべきか、どのような友達を持つべきか、非常に有用な情報を開示してくれたことになるのではないだろうか。

コロナ禍による分断を統合へ

世の中の分断が止まらない。飲食店に対する時間短縮要請、企業に対するテレワークの要請、不要不急の外出自粛要請、いろいろ出てくるが、いずれの当事者にとっても生死にかかわるほど重要な問題なので、素直にコロナ対策優先で行こうという結論に一直線にはならない。

政府の後手に回った対応に批判する人も多いが、批判するのは簡単なので、どの批判を聞くのも嫌になってくる。箱根駅伝の沿道での応援に対する批判、年末年始のカウントダウンに集まる人への批判、年末年始の帰省者に対する批判、どれも怒りに満ちた批判である。この「怒り」に満ちた想念はどこからくるのであろうか。自分は正しいという確信、あるいは正義感であろうか。東京から田舎に帰省した人がお土産を持参したところ、「東京のお土産など受け取るな!」といった地方の人もいるという。本当に当人の怒りが伝わってくる話である。

しかし、このような怒りに同調する必要はない。少なくとも何が正しいか、何が正義かなど誰にもわからないのであるから。しょせん、独りよがりで狭い了見での認識である。

今の分断の状態をどのように解釈したらよいのだろうか。一つ見方を変える必要はないのか。怒りを表現する前に一呼吸置く必要はないのだろうか。

たとえば、関西では、エスカレーターに立つ位置は右側で、左側は急いで歩く人のために空けておく。一方、関東を含めたそれ以外の地域では左側に立つ。どちらが正しいというわけでもない。大阪に出張すれば自分だけ左側に立っていても悪いことをしているとも思わないし、右側に立つのが習慣だと気がつけば臨機応変に変更する。筆者の知る限り、ロンドンもパリも人々はエスカレーターで右側に立つので、左に立つ東京のほうがめずらしいのかもしれない。

現在の分断をこれと同じようなことと思えば、自粛しない人も、マスクをしない人も、夜の街で飲み続ける人も、だれも批判しなくてもよくなる。人を批判することで世の中を変えられると思う人がいるのであれば、それでもよいが、単なる批判にそんな力はない。政治の世界の野党をみれば明らかである。

少なくとも夜の街で飲み続ける人を止めさせる権限は誰にもないし、それを仕事として日々の糧を得ている人にとっては死活問題である。それでも止めさせろという人には、自分が逆の立場になったときのことを想像してみてほしい。日本国憲法では営業の自由、人身の自由というものが保障されている。その権利は侵されることがあってはならない。現在のコロナという緊急事態であったとしても。そして、それが必要な場合は法改正が必要である。しかし、もしこの基本的な権利が失われたとき、われわれの生活や人生は戦時中のように一変する。少なくとも誰もそんなことは望んでいないのではないだろうか。

このようなことをいうと、また批判する人も出てくる。批判に批判を重ね合わせていくことで、争いは永遠に終わらない。そして、世の中をよい方向に変える力はますます消耗されることになる。

このような不毛な議論で時間を浪費することに嫌気がさし、つくづく人間が嫌になったときはどうするべきか。希望を捨てる必要はない。むしろ希望をもって自分の心の中に自然と対話する場所と時間を確保するとよい。緑のある公園、散歩道、ハイキングコース、どこでもよいので自然と対話し、メッセージを受け取るのもよいであろう。人類は自然の一部でしかないこと、ウイルスや細菌も自然の中で必要があるから存在していることに思いを馳せるのである。プラスの思いで心を満たし、肯定的な思考で対話を続ければ希望もみえてくる。

おそらく一人ひとりの前向きな思いは集合意識に働きかけ、地球全体を変える力を持つかもしれない。百匹目の猿現象というのがある。どうも科学的根拠がないと否定されたようであるが、プラスの思いの人の数がある閾値に達すると、社会が変わりはじめることがあることを、われわれは経験から知っているのではないだろうか。たとえ科学的根拠はないとしても。

今の筆者が思いつく、分断から統合へのシナリオは、多くの人が心の中で対話をはじめ、コロナ禍という現象をプラスに解釈することができ、その思いで世の中を統合していくことくらいしか思いつかない。少なくとも理屈全開で叫んだところで、何も生むことはないように思えて仕方がない。

日本は監視社会を受け入れるのか

コロナ対策で各国の対応が分かれる。スマホから得られる情報を利用して個人の行動を監視し、感染症の拡大をコントロールしようとする社会が中国や韓国、台湾、シンガポールなどで、都市封鎖によるコントロールを試みているのがヨーロッパやアメリカの一部の州である。どちらも普通の人にとって不都合であるし、できればその渦中に入りたくないと思うであろう。日本の対策は中途半端なようにもみえるが、実は絶妙なバランスを取っているもっとも望ましい対応なのかもしれない。

とくに、スマホでの監視は自分の行動履歴が追跡され、ほとんどプライバシーなどないに等しいし、ある一定の感染リスクに達したと判断された場合、突然、レストランや公共施設を使えなくなるというシステムである。日本人の感覚からイメージすることが難しいが、普段はクレジット・カードで買い物ができるのに、あるとき突然クレジット・カードが使えないように国によって管理されるとしたら、それは不便であるし、そのような不安定な状態に置かれることはそれなりにストレスであろう。シンガポールに住んでいる知人の話だと、シンガポール政府は定期的に人の動きを監視するために、政府に雇われた人がスマホに電話をかけてきて、どこにいるのか確認するということであった。さすがに統制のとれた管理国家であるが、自由は奪われ常に監視されている緊張感があり、そのストレスたるや相当なものだと思われる。また、街中には日本と比較にならない数の監視カメラが設置されている。市民の行動はどこかで監視されているのである。

このように、中国やシンガポール、あるいはヨーロッパ諸国に比べると、日本社会は非常に自由度が高い。そして、コロナ対策という観点からは、日本の対応は緩いとう批判も出てくるであろう。しかし、国家権力により行動の自由に制限を加えられ監視されるとについて、だれも歓迎するはずがないと思う。そう思いたいがどうであろうか。そういう意味で、日本は国家による市民の統制が効きにくい、あるいはできない社会でもある。この点、自分たちがいかに恵まれているかをもっと冷静に考えてもよいと思うし、対応が緩いと批判するのであれば、中国やシンガポールのような監視社会に移行することも受け入れるのかをじっくり考える必要がある。

そして、日本は監視社会を採用していない結果、何が起こったのか。一つに、緊急事態宣言の後に営業しているレストランやパチンコ店に嫌がらせをする、他県ナンバーの車に嫌がらせをするなど陰湿な行動がみられた。今は、マスクをしない人に対して正義を振りかざし非難することもあるであろう。これはまるで戦時中の隣組と類似した行動であり、市民による相互監視社会と同じである。隣組はもともと江戸時代の五人組を継承した市民による相互扶助の制度であるが、戦時中には思想の統制や相互監視としても機能し、市民の多くは窮屈に感じ、場合によっては恐怖も感じた。うかつな発言が憲兵隊に密告されれば、拘束されて尋問や拷問されるということもあった。

極論だという人もあるであろうが、一度、監視社会を受け入れると、歯止めが効かなくなる。太平洋戦争がはじまる前、まさかあのような社会になるとはだれも想定しなかったはずである。コロナによる感染者数や死亡者数が増え続ければ、そのような自粛警察の活動も活発になり、それが正当化されるような社会もくるかもしれない。

今、戦時中の苦い記憶や経験というものがどんどん薄れている。戦後に社会が解放されたときの清々しさというもの忘れ去られている。自由を手に入れ思想や行動に制限が加えられなくなったとき、まさしく自律することが要請された。それはそれなりに他律と比べると難しい点もある。しかし、日本人はそれを欲したのであろう。そして時代は過ぎ去り、今は他律をむしろ心地よいと思う人も増えているのかもしれない。自分で自分をコントロールするより、他者に自分のコントロールを任せるほうが楽であると思う人が増えているのだろうか。しかし、他律を選んだ社会の悲観的な結末は容易に想像がつくのではないだろうか。

筆者は他律より自律を好むし、思想や行動の自由も確保したいと思うほうである。公共の利益と私的利益のバランスを取るための模索は続きそうであるが、公共の利益を優先するために監視社会を受け入れる気にはなれない。中国やシンガポールのような監視社会で人生を楽しむこともできそうにもない。各国が暗中模索の状況であるが、日本の対策も狙いが定まらない状況が続く。しかし、正解がない状況で試行錯誤しているのであるのだからそれは仕方がない。むしろ正解があるかのように断定的な見解を表明する人のことを疑うことも必要だと思われる。全体主義を心地よいと思うのであれば別であるが、ときが過ぎれば後悔することが多いことであろう。

パラレル・ワールドを体感する

 在日ミクロネシア日本大使館のウェブサイトに「ミクロネシア出入国にあたっての諸情報」があり、 2020年2月4日に次の記載がある。

「 1月31日にミクロネシア大統領府が発出した新型コロナウイルスに関する緊急事態宣言に関して、2月3日より、ミクロネシア政府は日本が感染地域・国であるとして、同宣言(4)にある14日間ルール(注)の適用を開始しました。

このため、日本からミクロネシアに入国するにあたっては、ミクロネシアに入国する前に非感染地域であるグアムやホノルル等で最低14日間滞在する必要があります。また、ポンペイ空港では、入国者のヘルス・スクリーニング(主に申告書と体温測定)が始まりました。

なお、14日間ルールの適用に伴い、3日、グアム発ミクロネシア行のユナイテッド航空便で、乗り換え客17名(国籍不明)が搭乗拒否にあった他、複数のミクロネシア人が入国出来ず、規定の14日間を満たすまでグアムやホノルルで足止めされている模様です。

今後、同宣言を踏まえて日本人旅行者に対する当局の規制が更に厳しくなる可能性があるところ、ミクロネシアへの渡航に関しては、充分な注意が必要です。」

この日、筆者は成田空港で自動チェックインによる手続き済ませ、グアムに向かった。ただの海外出張であったが、仕事に関連するミクロネシア当局との面談も含めていくつか予定が入っていた。そして、グアムのホテルに一泊し、2月5日グアム国際空港に向かい、ミクロネシア連邦ポンペイ島に向かう予定であった。しかし、グアムの空港で出国手続きを済ませてユナイテッド航空の搭乗ゲートに行き、飛行機に乗ろうとしたところ搭乗を拒否された。日本のパスポートを提示しており日本からの入国になるので、前述の14日間ルールに該当してしまったのである。さすがにこのときは、どこでもドアとしての日本のパスポートも通用しなかった。そんな事情は知らないので何とかユナイテッド航空の職員に交渉して現地を行かせてもらおうとしたが、もちろん無理であった。結局、その日の午前中に日本の旅行代理店にメールでお願いし、日本への帰国便を手配。帰国の途に就いた。グアムへの一泊二日旅行というなんとも不思議な出張になった。

その後、日本の情勢も徐々に深刻さを増していった。学校が閉鎖され、会社も従業員のオフィスへの出社率を50%以下に努力目標を設定したので、週2回出社するような状況になった。

ただ、筆者の場合は、毎朝5時ちょっと前の乗客が少ない始発電車に乗って東京まで通勤しているので、ゴールデンウィーク前までは毎日出社していた。しかし、上司も心配してくれることもあり、5月からは週2回程度の出社に切り替えることにした。そして、世の中は自粛ムードのままどんどん時間だけが経過していったのである。

コロナウイルスに対する認識について自分は多くの人と違うのかもしれない。賛同していただける人もいるものの、少数派なのはわかる。どうも自分がみえている世界と多くの人がみえている世界が違うようである。多数派と少数派であれば間違いなく少数派に含まれる。少なくとも外を散歩しているときにマスクなどしていないし、すれ違う人の多くがマスクをしていることをみると、どう考えてもマイノリティである。まるで自分と他人は異なる次元を生きているようで、みえるもの、聞こえるも、読むもの、とれる情報すべて違うのではないかと思われる。

このような感覚があながち間違いではなく、過去に同じような経験をしたことがある。それは、東日本大震災の直後の福島原発事故のときのことである。

当時、多数派と異なる感覚を持った事情に、筆者がフランス人と国際結婚しているということがある。事故当時、まずフランスの家族からの情報や助言が大量に入ってきた。チェルノブイリ原発事故を経験しているフランス人は、日本人より放射能の危険に対して敏感に反応する。しばらくして原発事故が収束した後にフランスを訪問したときは、チェルノブイリの事故当時、フランス政府がドイツとの国境で放射能は止まった、という嘘をついて国民をだました、という話を何回か聞かされた。

また、原発事故のときは東京・広尾のフランス大使館からの情報が得られた。EU域内の各国は情報交換しているので、かなり客観的情報であったであろう。妻はときどき大使館に電話をして情報と助言をもらっていたが、大使館員の反応も時間の経過とともに変化していた。

時間軸で明らかに態度が変わったのは3月15日からである。3月14日の2度の水素爆発と3月15日の朝の水素爆発の前と後では危機感がかなり違っていたということである。3月15日以前であれば、大使館員の助言は、外に出ずに自宅にいれば大丈夫です、というようなアドバイスであったが、3月15日の朝の助言は、逃げられるのであれば、できるだけ遠くに逃げてください、ということであった。しかも声も震えていて冷静さはなかったという。

フランスの専門家は爆発の映像なども分析していたであろう。3月14日、15日と続いた複数の爆発の後、分析の評価はかなり深刻なものに変わったのだと思われる。そして、日本のフランス大使館に入るフランス政府からの指示や情報も大きく変化した。結局、フランス政府は3月16日に政府のチャーター便を用意しており、自国民を脱出させることにしていたのである。

チャーター便があるという情報はぎりぎりまで知らなかった。そして日本国籍である私もフランス国籍者の配偶者としてチャーター便に乗れたようである。しかし、わが家の場合、当時小さかった3人の子どもがいたので、フランスの家族の強い要請もあり、日本を出国することをすでに決めていたのである。そして、羽田空港や成田空港発のフライトは満席で予約が取れず、何とか関西空港発の大韓航空が予約できた。その後、3月14日にレンタカーを借りて、3月15日の朝3時半に家を出発し、関西空港に移動するために羽田空港に向かった。大渋滞のリスクもあるかと思い朝の3時半に出発したが、渋滞はなく朝の5時頃に到着してしまった。

3月15日の朝、羽田空港では妻がフランス大使館に電話をし、状況を確認したところ、前述の通り、できるだけ遠くに逃げろというアドバイスになっていたので、自分もどうしてよいかわからなくなった。羽田空港で妻と子ども3人を見送り、自分はレンタカーで家に帰ろうと思っていたからである。しかし、大使館員の反応は尋常ではなかったということで、自分もレンタカー会社に電話をして、羽田空港に乗り捨てに切り替えてもらうことにしたのである。その後、無事に家族5人で関西空港まで移動して、家族は大韓航空でソウルを経由してフランスに一時避難できた。自分は仕方がないので、大阪のホテルにしばらく滞在することにした。会社には有給休暇ということで電話をしておいたが、理解のある上司は快諾してくれた。

こうなると、自分だけ別次元にいる感覚である。大阪の市民は危機感なく、普通に暮らしている。繁華街でも若者がにぎやかに騒いでいる。首都圏の人も日本政府の情報を信じて混乱はあるものの通常の暮らしを心がけている。自分だけが緊急事態宣言の真っただ中にあるようなもので、夢でもみているのか、映画の世界にでもいるような感覚にとらわれていた。

当時は、ほんの数日間の出来事で、まさに突然の決断と変化であった。それに比較すると、コロナ禍はじわじわと進む嫌な感覚がある。ただ、福島原発事故のときに感じた少数派としての孤独と、今の少数派としての立ち位置では、今のほうが気楽である。少なくとも漸次進展するコロナ禍に対して、徐々にマスメディアの報道に違和感を覚える人も増えているからであろう。数字の操作やデータの解釈次第で、ポジティブにもネガティブにもなれることに気がつく人も増えている。こんなことを続けていれば、本当に別のことで死んでしまうと思いはじめている人が増加していると思う。

これは結局、どのような視座を持つかによって住む世界が変わるという、まるで並行世界(パラレル・ワールド)と同じことなのではないだろうか。「世界は一つ」と多くの人は信じているが、それは観念が固定されているだけなので人間の錯覚かもしれない。遠大なテーマで、私がとやかくコメントできることではないが、この世界には複数の異なる次元があって、人によって住んでいる次元が異なる、あるいは人は異なる次元を行き来することができるということもあるかもしれない。しばらくこの状態は続くであろうが、自分の観念をどこにもっていくかで、幸福にも不幸にもなれるという単純なことなのかもしれない。