職人的生き方の時代

自分だけの生態学的ニッチで生きる

「英語」vs.「専門性」のバランスをとる

著名なコンサルティング会社のマッキンゼー社による、企業経営者のダイバーシティが企業業績に与える影響について調査した論文がある。Vivian Hunt et al., Delivering through Diversity, (2017) によると、企業の役員の性別や民族に多様性があるほうが好業績であることを論じている。

そこで、この論文の中で使用されている図表を見てもらいたい。2014年に性別の多様性がある企業の上位25%は、下位25%の企業よりも15%業績が良いことを示している。あるいは、2014年に民族の多様性がある企業の上位25%は、下位25%の企業よりも35%業績が良いことを示している。2017年のグラフも同じである。筆者は論文の趣旨は理解できたが、どうしても理解できない数字があった。それは、棒グラフ内にある2014年の性別多様性の47、54、民族多様性の43、58及び2017年の性別多様性の45、55、民族多様性の44、59である。

〔図表〕

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結局わからないのでネイティブの知人に確認してみた。しかし、この数字は企業数だという回答であった。ただ、どうしても論理的に説明がつかない。電卓を叩いて確認するものの納得できなかった。また、注釈1)に”Average EBIT margin”とあるが、MBAで学んだことがない私でも、47%や54%ではあまりにも大きいEBIT margin(EBIT=税引前当期純利益+支払利息-受取利息)になってしまうことはわかる。せいぜい良くて10%とか15%ではないか。よって、EBIT marginでもない。そこで、英語がほぼネイティブのヨーロッパ人にも聞いてみたが、1週間経っても回答がなかった。

ところが、意外な人が回答をくれた。妻である。妻の母語はフランス語で英語は第二外国語、日本語は第三外国語である。ただ、大学時代に経済学を専攻した時期があり、これは中央値を50として、上位25%の企業が54で下位25%の企業が47だと説明してくれた。This makes more sense!!(これは合点がいく!!)である。

ここで得られる示唆は英語の能力も大切であるが、当該分野の背景を知らないと理解できないことがあるということかもしれない。バックグラウンドがあるとないとでは、同じ英文レポートを読んでも理解力に差がでるということである。たしかに、表題にmedian(中央値)という単語が使われているので、それに気づけば中央値を50としていることがわかったかもしれない。それに気づかない自分も情けないが、やはり経営学や経済学の訓練をうけていないので、当該論文の理解も浅いのだと感じた。日本語で徹底的にこの分野の訓練を受けていれば英語力が弱くても理解できることはあるのかもしれない。

英語で専門分野を学ぶことの重要性は繰り返し述べているが、圧倒的な日本語力があるのであれば、まずその分野の知識を徹底的に積み上げることを優先してもよいともいえる。そうしておけば、当該分野における英文のレポートや論文も容易に理解できることになる。英語、英語と英語漬けもいいが、専門知識を磨き上げることも忘れてはならない、という教訓かもしれない。ネイティブがわからない英語論文をノンネイティブが理解できるということもあるわけなので。

もう一つ感じることは、マッキンゼー社には圧倒的な天才や秀才が多いのであろうが、普通の人々に理解してもらうための技術が不足しているのではないかと思った。頭の良い人は自分の中で論理が完結し、その難しい論理をやさしく人に伝えることが苦手なのかもしれない。難しいことをやさしく伝えるという技術は、ぜひとも磨きたいものである。そのせいもあってか、2020年のVivian Hunt et al., Diversity wins, (2020) では、”Likelihood financial performance vs. the national industry median”という注釈表記がなされており、よりわかりやすくなっていた。しかも、グラウの中央値である50の点線が引かれている。読者からクレームがあったのかもしれないが、分かりやすさが改善されているのがわかるので機会があれば確認してみてほしい。

専門分野を理解するための語学学習

山崎正男『陸軍士官学校』(秋元書房、1990年)によると、陸軍士官学校時代に外国語の成績が良かったものは、将校になってから出世しているという。また、陸軍大学校の卒業時に成績優秀だった人は、海外留学の機会を得られた。たしかに、将校は日本の外に出て活動するわけなので、語学の能力は必須だったのだろう。また、興味深いのは1888年から1936年の間の留学先はドイツが一番で、次がフランスそしてロシアであった〔図表〕。どこも陸軍大国なので当然であるが、軍隊組織や軍事戦略・戦術について大いに学ぶべきところがあったのであろう。今の日本人の留学先と比べると隔世の感がある。

学術の世界では法学分野でも圧倒的にドイツ語優位であった。当初明治20年頃まではフランス法がよく参照され、パリ大学教授のギュスタヴ・ボワソナードが招聘されてフランス法がよく学ばれていたが、明治憲法プロシア憲法を範としたため、その他の法律でも徐々にフランス法からドイツ法に研究の中心は移行していった。筆者が学生時代の大学教員にも、まだドイツ語やフランス語が第一外国で、英語は第二外国語という方も多かった。ところが、第二次大戦後は、新憲法や、労働法、経済法などで英米法の影響を強く受けることになり、商法の分野でも会社法などではかなりアメリカ法の色彩が濃くなったために、英語が第一外国という人が多数派を占めることになった。実際、国際ビジネスに影響を与える国際取引法などは、アメリカ法を理解できていれば、ある程度の枠組みはつかめるのではないだろうか。保険法の分野もロンドンのロイズを中心に再保険取引が活発に行われるので、保険取引を理解するにはイギリス法は必須になる。

このように、外国語の選択は学習の目的に合わせて決めることになるわけであるが、今の日本において英語が選択されるのは、多くの人がビジネスに必要だからだと思われる。よって、語学を学ぶ目的を設定する場合、ビジネスの本質を理解するという課題を設定し、マーケティングを理解したい、会計を理解したい、財務を理解したい、ビジネス法を理解したいという強い動機があれば長続きする可能性は高まる。英語のために英語を学ぶというのは、言語学者や英文学者でもなければ、普通の人にとってはハードルが高い。よって、英会話学校はできるだけ早く卒業して、自分が理解したい専門分野を英語で学ぶようにしたほうがよいと思う。

専門書を読むのは大変なように思うかもしれないが、出てくる専門用語や言い回しにあるパターンがあるので、慣れればそれほどでもない。もちろん、書き手によっては、まったく歯が立たないという難しい書籍や論文もある。しかし、それは日本語でも一緒で、意図的に理解できないような日本語で書いたのではないかと思える学者の本もあるわけで、理解できないからといって悲観する必要はない。

 

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「人間は必ず死ぬ」という前提の政策決定

著名な科学者が動画で学生に自粛を呼びかける。みなさんの賢い行動が人の命を守るという。皆さんの大好きなおじいさんやおばあさんを守るという。それは端的にいうと自粛しない若者は愚かであるというメッセージのようでもある。しかし、本当にそうであろうか。多くの若者が閉塞感にさいなまれ鬱になり、経済を止められたことでアルバイトができずに困窮する。大学の授業もまともに受けられず、授業料だけは払わされる。なぜ高齢者のために彼ら彼女らは犠牲にならなければならないのであろうか。ある自治体では高齢者のインフルエンザの予防接種を無償化する。その予算はどこから来るのであろうか。あらゆることで、今の若者はついていない。明らかに高齢者よりも未来のあるはずの若者が犠牲を強いられている。

なぜこのような不条理なことが起きるのか。何もしなければ10万人死亡するといわれたが、対策をとったので1000人台で収まったのか。自然科学の世界では10万と1000の違いを「誤差」というのだろうか。自然科学の素養が欠ける筆者でも誤差の範囲ではないかことくらいはわかる。誰がみても単純に専門家の予測は誤りだったのである。ある医者がいうには、年間風呂場で発生する死亡事故は年によって3万件から5万件あるそうである。風呂に入るときにそんなに恐怖を感じることがないのに、なぜコロナウイルスは別格なのか。結果的に、その専門家の予測に煽られて経済は大打撃を受け、航空会社や旅行会社、ホテル、旅館、エンターテイメント等は息の根を止められそうになっている。来年の就職を予定していた若者は仕事が見つからない、有効求人倍率は1倍を切る勢い、完全失業者数は200万人を超えた。

ところで、前提として「人間は必ず死ぬ」ということをスタート地点にすると取りうる戦略は変わってくるであろう。誤解を恐れずにいうと、高齢者からこの世を去っていくのは自然の摂理に沿った現象であり特別なことではない。新型コロナウイルスに限らず、他のウイルスでも高齢者の死亡率は高い。当然のことを当然のこととして受け入れることができる。一方、経済に強烈な一撃を与えて社会を麻痺させ、若者を危険にさらすことは自然とはいえない。第二次大戦に突入して多くの若者を失った決断とあまり大差はないように思える。

政治家は有権者をみて政策を決めるわけだが、少子高齢化で高齢者の有権者数は増えている。また、選挙のときに投票にいくのは、時間に余裕のある高齢者である。私も投票には必ず行くが本当に老人が多い。このような状況で、どうしても高齢者優先の政策をとらざるを得ない状況が作り出される。清水仁志「シルバー民主主義と若者世代~超高齢化社会における1人1票の限界~」(ニッセイ基礎研究所、2018年)にも端的にそのことが示されている。高齢者に配慮するために国として本来実行しなければならない政策がとれない。近いうちに消えゆく老人のために未来への投資ができないわけである。もちろん、そのシルバー世代が去ったあとはシルバー民主主義も終焉を迎えるわけだが、そのとき日本は活力を失っており、再生する余力もなくっているかもしれない。高齢者は人生の最期の責務として、次の世代に何を残せるかを考える必要がある。また、政治家も研究者も、本当に必要な対策が何かを今一度再考する必要があるのではないか。少なくとも科学者の学生に語りかける動画に、学生の未来があるとは思えなかった。むしろ大人のわがままのようにしか聞こえなかったのは私だけだろうか。一度、その動画を静かに視聴してみることで、自分がどちらのサイドに立っているのか感じることができると思う。

権威に寄り添うだけでは見えない事実

上久保靖彦氏らによる新型コロナウイルスの論文が、2020年5月3日に第1バージョンとして発表され、6月23日に第2バージョンが出されている。Yasuhiko Kamikubo, Toshio Hattori, and Atsushi Takahashi, Paradoxical dynamics of SRS-Co V-2 by herd immunity and antibody-dependent enhancement, Cambridge Open Engage (2020) は、インターネットでも入手できる。また、新書で一般向けに、上久保靖彦=小川榮太郎新型コロナウイルス』(ワック、2020年)も出版されている。まったく当該分野に専門性はないが筆者なりに要約すると、2020年1月までにウイルスのS型とK型が日本に入り、日本人は武漢で発生したG型に対する免疫を獲得していたという。また、台湾は入国制限の前に中国本土から人が戻り、うまく免疫が形成された。それでは、なぜ欧米で被害が広がったのかというと、K型が入る前に入国制限したために、G型に対する免疫が形成されなかったということ。今後の免疫形成を考えると不自然な入国制限は人類の免疫システムを狂わせるので、一日も早く正常化すべきとなる。症状が発症するかしないかは、オーストラリアの死者数の少なさからも明らかで人種に関係なく、ただ免疫を獲得したかどうかの違いである。よって、上久保氏らの説は、症状が重症化しない日本ではほとんどの人が無症状でやり過ごせる、という集団免疫獲得説になる。結果的に入国制限が遅れた日本政府の対応が良かったわけであるが、非常に論理的で今の日本の状況をうまく説明できている。

ここで問題にしたいのは、なぜこの論文がほぼ無視されているのかということである。本来であればこの論文を参照して反論する、あるいはさらに論理を発展させるなど、他の研究者の論文が出てきてもおかしくないのではないか。それがあまり取り上げられていない。不思議であるが、実は権威のある多数説の学者が自分の過ち、あるいは見込み違いを訂正できなくなっているのではないか。何も対策をしなければ40万人死ぬ、あと2週間で医療崩壊、そして、ノーベル賞学者による10万人死亡説。このような説を唱えた多数説が、少数説を受け入れられなくなっているのではないだろうか。なぜこんなことが起こるのだろう。まだ、死者数は1000人台だというのに。

まず権威というものは人の思考を固定化してしまう。柔軟性が欠落し、少数説の中に真実があるかもしれない、という可能性を探求することがなくなってしまうのではないか。学術論文を書くときに、権威ある学者や権威ある大学の教授の書いた論文を引用することで、自説が補強されたような気になるが、実は同じ説を主張していた無名の研究者の論文のほうがより優れていることはいくらでもある。自分の専門分野でも、学会で著名な学者の論文でまったく意味が理解できない、主たるメッセージが何かわからない論文はある。自分の専門分野でもあるので、理解できないと自分の自信も失う。それでも多くの人は、あの人はすごいという印象を持つ。権威に寄り掛かるのは楽なのかもしれない。筆者は権威とは無縁なので、良いと思う文献や論文があれば、どなたであろうとも引用させていただく。むしろそのほうが隠れていたダイヤモンドを見つけたような気分でワクワクするからである。

結局、ノーベル賞受賞者も「神」ではなく「人間」なのである。過ちはあるし失敗はある。しかし、それを自分で認めることができなくなっているのかもしれない。それこそ今は死者数が増加してくれ、とでも祈っているかもしれない。どんなに偉大な業績を残しても、どんなに立派な理論を構築しても、つねに自分は間違っているかもしれない、と思いつつ自説を主張する姿勢が重要なのではないか。あるいは、本当に上久保氏らの論文に誤りや誤解があるのであれば、しっかりと論理的に反論をするべきである。しかし、一切取り上げる気配もない。多数説の学者は一般国民にバランスの取れた判断をしてもらうためにも、このような集団免疫獲得説があることを社会に伝えるべきであると思う。今はあまりにも稚拙な情報操作が行われている気がして残念でならない。

土着語を学ぶことで得られる深い楽しみ

日本人海外駐在員の語学力が一般的に高くないことは認識されている。秘書がいるし日本人スタッフもいるので現地スタッフとのコミュニケーションもそれほど必要ない。そもそも現地人の上司がいないので語学力は向上しようがない。まだ、日本の外資系企業で外国人のボスがいるほうが語学力は向上するであろう。また、現地の日本企業が相手のビジネスであればそもそも語学力など必要ない。英語圏に何年も駐在しながら、英語の環境に身を置かないで過ごすことが可能なのは非常に難しそうであるが可能なのであろう。

それをいうなら、日本に駐在しているアメリカ人は気の毒なくらい日本語をマスターできていない。現地語を学べばもっと楽しい駐在員生活ができるのにと思うが、彼らの周りには英語ができる日本人が多いので、日本語を学ぶ環境としてはかなりハンディがあるといってよい。とにかくモチベーションを高められないのであろう。

現地語を学ぶ大切さを知る視点で、日清戦争後に中国大陸に駐屯していた日本軍の報告書は興味深い。吉野直也『天津司令部1901-1937』(国書刊行会、1989年)によると欧米列強に比べて日本軍将兵の語学力が低すぎて、現地人との親善も促進できない不都合が報告されている。イギリス軍は外国語を一つ習得すると増給されるし、表彰される制度があることに比べて、日本軍の制度が貧弱で改善すべきことが提言される。ちなみに、共同軍事行動の際には将校の語学力の低さが問題で、作戦行動にも支障をきたすことがあったようである。命にかかわることなので致命的である。

たしかに、命にかかわらなくても、現地語を学ぶことは現地を楽しむという点でも大切である。1999年にルーマニア旅行したとき、出発前に直近まで共産主義の国で英語は通じないので現地語を学んだほうがよいと助言された。半年間で旅行に必要なルーマニア語を学んで旅をしたが、現地の人との交流に役立った。タクシードライバー、鉄道の職員、デパートの店員はほとんど英語が通じない状態で、首都ブカレストの三ツ星ホテルのレストランでさえ英語は通じなかった。

「ヴォルビーツィ・エングレゼーシュテ?(英語を話しますか)」

「ヌ(いいえ)」

半年間に習った丸暗記の表現を利用し、メニューのオーダーから料金の支払いまでしなければならない。そして、移動の時は本当に不安なもので、切符をようやく買えたとしても、その切符に書いてあるルーマニア語が分からず苦労した。

「ダーツィ・ミ・ヴァ・ローグ・ウン・ヴィレート・ペントル・ブクレシュテ?(ブカレストまで切符を1枚下さい)」

「パートル(4番窓口です)」

1番窓口で30分も行列に並び、やっと切符を買えると思ったときに駅員に言われた言葉には途方に暮れてしまった。しかし、現地語を話すことで現地人は間違いなく心を開いてくれていることは実感できたのも事実である。

また、日本人に限らず、どの国の人でも異国を訪れるのであればその国の言語を学んだほうがよい。イギリスに比べて土地が安いという理由で、イギリス人がフランスの地方に土地建物を購入し住むことも多いが、結局、その土地になじめず去ってしまうイギリス人が多い。ビジネスだけなら英語でいいが、日常の生活には現地語が必要なのである。

その点、英語の崇拝者が多い日本人が非英語圏に駐在すると、せっかくの得難い経験を与えられているにもかかわらず、英語だけで押し通す人が多い。非常にもったいないと思う。なぜそのチャンスをものにしないのか。

考えてみると日本もそうである。地方で英語だけで生活するのは無理がある。東京でも英語だけで生活しようとすると、生活費がかなり上がってしまうだろう。地元のスーパーや食堂に行くなら日本語がわかったほうがよい。子どもの義務教育も日本語であり、英語は外国語としてちょっと学ぶだけである。そもそも日本語しか通じない場所にこそ、興味深い日本のカルチャーが潜んでいるわけで、英語しか話せない外国人は、日本の半分も理解できないであろう。どこの国を旅するのも仕事をするのも、やはりその国の土着語を少しでも話せれば、より多くの深い体験が得られることになる。

英語は「世界語」の地位から降りるのか

多くの人にとって英語を学ぶ動機は経済的理由と直結しているかもしれない。英語の運用能力があれば選べる仕事の選択肢は増えるし、実際に高い年収を獲得できる傾向はある。また、日本企業に勤めていたとしても自分の会社が突然破綻しても、外資系企業への転職という逃げ道も確保できる。さらに、一度外資系企業での勤務経験があれば、その企業でうまくいかなくても、別の外資系企業への転職は比較的容易になる。外資系には独特のコミュニティがあるので、ネットワークの中での仕事探しができるわけである。

しかし、それ意外の理由で英語を学ぶ動機はそれほど高くないかもしれない。主観も入っていることを承知であえて言うが、英語圏で美味しい料理が食べられる国はあまりない。興味深い歴史的建造物をみたいと思う街もそんなに多くはない。文学や哲学もヨーロッパ大陸に比べると著名人は少ないように思われる。このような状況で英語が世界を支配するということはないと思われる。あくまでビジネスの言語であり、それ以外のことで英語が世界を席巻することはないのではないか。

過去を振り返っても18世紀にはフランス文化がヨーロッパ全域に広がりドイツやロシアの宮廷ではフランス語が話されていた。小林善彦『フランス学入門』(白水社、1991年)によると、プロシアのフリードリッヒ大王は軍隊に命令する程度のドイツ語しかできず、普段はフランス語を話していたという。しかし、そのフランス語も最近は凋落の傾向に歯止めがかからない。また、ローマ帝国の発展とともに伝播したラテン語カトリック教会の公用語として使用されたり、ヨーロッパにおける学術の世界の共通語であったりしたが、今はほぼ死語となってしまった。

英語も同じように衰退の道をたどる可能性はある。逆説的であるが、ビジネスの言語として使用され、アングロサクソン的な新自由主義が世界を覆うと、結局、英語ができる者がビジネスの世界を支配しはじめ、貧富の格差が広がる。すでに日本も含めて世界で十分すぎるくらい貧富の格差は拡大しきっているわけであるが、そのような社会で貧困層は英語を学ぶ機会も使う機会もないことになる。「一部の英語話者」対「その他大勢」の構図ができると、その他大勢は英語への投資もままならないので、英語話者の人口は増えないことになる。英語が生み出す貧富の差は、英語が世界に広がることに対してブレーキをかけるという皮肉な現象につながるわけである。日本でも英語学習者の人口は増えているかもしれないが、並大抵の投資ではビジネスで使える水準にはならない。英語人口が急増と騒ぐのは、英会話学校の宣伝文句のみで、英語話者の人口増にはなっていないはずである。英語が公用語のはずのインドでさえも英語話者は全人口の12%程度である。フランスも英語話者が全人口の40%といわれているが、フランスで英語が通じたという経験はあまりなく、日本の状況と大差はない。よって、このままいくといずれ英語という言語は衰退するのかもしれない。ただし、自分が生きている間に次の言語が出てくるというような時間軸で起きる現象ではないであろう。「次の世界語」は何語か。予想するのは難しいが、比較的世界に広がりを持ち話者の人口も増加しているアラビア語の可能性はあるかもしれない。

経済的な豊かさと相関する英語力

英語の運用能力と収入は比例するのであろうか。相関はあるかもしれないが、ある一定のレベルになれば影響はなくなると断言できる。TOEICの900点と800点で年収の差が生じるとは思われない。それよりも問題は業務知識の厚みであり、英語の点数の差ではない。最近はWeb会議も増えて海外とのやり取りも容易になっている。そこで、900点の人が800点の人より有意義な会議ができるかというとまったく関係ない。聞いている側のアメリカ人やイギリス人にしてみれば、TOEICの点数の違いなど認識できない程度の誤差でしかない。しかもTOEICが本当に業務遂行するための英語能力の測っているとも思えない。たとえ700点でも600点でも議論のポイントを突いた発言ができ、相手に付加価値を提供できることが大切なわけで、ネイティブのように流暢に話せることは重要ではない。たとえネイティブのように話せても、まったく付加価値のない話を延々とされると、単に相手の時間を奪っているだけなので意味もない。ただ、ちょっとした冗談のセンスは必要で、その場を和ませるのに有効である。

良い仕事に就くために英語を学ぶというのは、長い歴史をみても確実に存在した事実であり、これを否定することはできないようである。平田雅博『英語の帝国』(講談社選書メチエ、2016年)によると、19世紀頃の様子が書かれたある報告書に次のような記述がみられる。現在のイギリスの一地方であるウェールズにおける親たちは、子どもが英語を話せると世間を渡っていける、でも英語を話せないと、そんなことはできない、と認識していたようで、平日の学校はおろか日曜学校でもウェールズ語を学ぶことに反対していたという。そして、ケンブリッジ大学ウェールズ人がウェールズ訛りの英語を話すと笑われたようであるが、その後努力して立派な人材になったものもいたそうである。また、イングランドからウェールズに移入した人たちは、ウェールズ語を学ばなくても、上司の言語が英語であり、商業の言語が英語であり、成功のための言語も英語で、子どもにとっての学校での言語も英語なので、問題なかったと書かれている。イングランド人にしてみれば圧倒的に楽な環境を手に入れることができたことになる。

同じく19世紀の報告書によると、アイルランドでも商業の言語として英語が使われ、身内との会話でゲール語が使用されていた。当然、現在でもアイルランドにおいて英語は公用語として通じるわけであるが、宗教はカトリックを維持することができたが、経済の力に押されて言語は英語によって征服されてしまったということであろう。

インドやアフリカの一部でもローマ帝国でのラテン語と同じく、法律、行政、商業の言語として英語が採用された。同じ国内でも異なる言語を話す彼らにとっては英語が共通のコミュニケーションの道具となり、英語ができる者は、容易に経済的な優位を獲得できたという。

悲しいかな経済的な豊かさを獲得するためには、英語を学ぶ必要があることを認めざるを得ない。しかし、私たちには日本語がある。実は日本語が参入障壁となって私たちの仕事は守られているといってもよい。想像してみても、自分の業務に使う日本語の専門用語を駆使して、流暢に話して仕事をしている外国人は少ない。英語が上手なあのオランダ人でも、Web会議の途中で断りを入れ、オランダ人同士でオランダ語を使用して確認させて欲しいとお願いされたことがある。微妙なニュアンスや言い回しは誰でも母語のほうが安心なのは当然である。英語を磨けないとあきらめた人がいるとしたら、圧倒的な日本語運用能力を身につけ経済的な優位性を獲得することもできると思う。それでもある一定レベルの英語ができればいいに越したことはないが。