職人的生き方の時代

自分だけの生態学的ニッチで生きる

「株」「不動産」「投資信託」あるいは「英語」

確実なリターンを得られる投資は何か。株や不動産、投資信託、金、商品先物取引、どれをとっても元本保証はされない投資である。その点、自己投資としての英語は比較的確実な投資といえる。とくに20代の人で300万円あれば、1年でもいいので海外留学するとよい。300万円を自分で払って現地で学べば必死になる。会社派遣で20代の人がMBA留学できたような時代もあるが今は難しい。しかも会社のお金と自分のお金では、モチベーションの点から自分のお金で学ぶほうがはるか望ましい結果を生む。その証拠に、日本でMBA留学を経験した人が際立って活躍していることはない。そもそもアメリカのMBAの授業料を自己負担できる人はそうはいない。よって、語学留学だとしても自分で300万円払って行けば、おそらく長期的にMBA以上のリターンが得られる。

たとえば、300万円で海外留学して帰国後、外資系企業に勤めれば1年で300万円を回収できるチャンスはある。すなわち、帰国前の年収が500万円だったのに、帰国後に800万円になることはあるだろう。しかも、300万円投資して1年で300万円のリターンがあり、それが毎年継続するとしたら、こんなに確実な投資はないわけである。人にもよるだろうが、人は人で、自分はその投資に賭けてみるのは決して悪くない。そして、重要なことは、帰国後の英語力以上に、実は20代で身につけた仕事力のほうである。英語は外資系の世界に入るための扉のカギでしかなく、扉が開けて中に入った後に活躍するための基盤は、実は業務遂行能力になる。よって、帰国後の面接で英語力を強調するよりは、20代でどのような活躍をしたのか、経験を話すほうが採用する側の印象はよいはずである。

さらに重要なことは、帰国後も英語を学び続けること。読む本は英語、読む論文は英語、見るドラマは英語、観る映画は英語、読む新聞は英語というように、英語を学ぶのではなく英語で生活することが重要である。また、電車の中でも英語を聞き、自宅でもシャドーイングをやりながら英語を話すための顔の筋肉を鍛える必要がある。少なくとも日本語を話している限り、一生涯使うことがない顔の筋肉の組み合わせというかコンビネーションというか、どちらも同じ意味だが、そのようなものが必要になる。普段使用しない筋肉を使うことで、英語の発話やアクセントは英語っぽくなっていくであろう。このように帰国後の投資も怠ってはいけない。また、何度もいうように仕事で使う専門分野の英語で読み書きができるようにならないと、さらなるリターンは望めないので、膨大な読み書きは継続することになる。

こうして、ある程度お金を稼げる基礎ができたら、次は自分の世界を広げるための第二外国語、第三外国語、第四外国語への挑戦である。とくに小国の言語は、使う機会が少ないものの、その言語を学ぶことで出会うネイティブからは多くの刺激を受けることができる。東欧の小国の言葉でも、アジアのマイナーな言語でもよい。なぜなら、日本に来ている彼ら彼女らは、自国におけるエリートであり、いろいろなところから奨学金を獲得して来日しているからである。自費で日本に留学するのが難しい国であるほど、実際来日している人材は優秀ということである。そのような人と接するだけでも自分の見える世界は大きく開けてくるはずである。よって、確実な経済的投資は「英語」といえるが、人生の豊かさへの投資は、実は次の「もう一つの言語」になるのかもしれない。ぜひ挑戦してみよう。

英語という「弱み」が「強み」になるとき

ビジネスの世界においてパワーポイントで資料を作成することが増えている。通例は短い文章を箇条書きにしたり、図表を多用したりすることで読み手の理解を容易にする技術が使われる。そこで、プレゼン資料をパワーポイントで作る機会があれば、和英二か国語で作成してみることをお薦めする。

筆者の場合、あるプロジェクトの推進において、本格的に動き出したら海外の専門家の支援を得たいと思っていることもあり、最初から二か国語で資料を作成することがある。その経験をもとにアドバイスするなら、日本語が先か英語が先かと問われれば、間違いなく英語を先に作成すべきことを提案したい。答えは簡単で、筆者の場合であれば日本語の文章技術に比べれば英語の文章技術のほうがはるかに劣っているからである。なぜ劣っている英語を先に作成するのかというと、日本語の文章と異なり、複雑な凝った文章が書けないからというのが理由になる。箇条書きにする場合の文章は極力シンプルであるほうが読み手を飽きさせることがなく親切である。一つの文章は長くても二行までで、望ましくは一行でまとめるほうがよい。結果的に英語を先に作ったプレゼン資料は簡潔でよいものになる。まさしく英語という「弱み」が「強み」に変わるときである。資料の重要な箇所にしるしをつけるときに使う付箋は、接着力の弱いノリを開発して失敗した3M社が、ノリとしてではなく付箋の接着部分に利用して成功した例があるが、まさしくこれと同じような偶然の発見であった。

また、日本人は英語でのプレゼンは得意ではないのは事実である。どうしても文と文を次々とつなげて文章を作り話すことが苦手である。学校教育では文と文をつなげる表現を多く学ばなかったのであろうか。たとえば、But then again(とはいうものの)、In any event(いずれにしても)、Meanwhile(話は変わって)、That said(そうはいっても)など、プレゼンのときにも使える表現であるが、なぜか口から出てこないものである。その点、プレゼン資料があらかじめ箇条書きになっていれば、英語が苦手な人でも順番に話していけ、あらかじめ、使う予定の接続詞も準備できるので便利である。結局、短いシンプルな英語表現は英語のプレゼンのときにも有効に機能するのである。

筆者の場合、アジア太平洋地域の社内会議に定期的に参加しなければならない時期があった。当然、同僚の中でオーストラリア人の英語が一番である。母語なので当然だ。次がシンガポール人、マレーシア人、香港人が上手である。彼らの中にはイギリスやアメリカの大学を卒業した人も多い。また、韓国人の英語のアクセントは強いが英語学習に力が入っている国なので、それなりにうまい。一方、日本人の筆者が一番下手なグループに入るわけであるが、同じ下手なグループに入るタイ人や台湾人の同僚とつるんで会話で盛り上がろうとしても、今度は彼らのアクセントが強くて理解できない。Excuse me? も Could you say that again? も2回まで許されるが、3回目になると聞けないので、分かったふりをして聞き流す。日本人的な謙虚さがこんなところにも出てくる。でもその謙虚さから、「おそらく害のある人間ではないのではないか、、、」という印象を持たれ、上司からも信頼されることになり、同僚からも近づきやすいやつと思われることになる。必死で実力以上のものがあるように装い、自分をアピールすることが苦手な日本人は、静かに実績を積み上げて他者からの信頼も得ていけばよいであろう。

英語が下手で寡黙な日本人が、人知れず業績を伸ばす姿は、どんな国の人も陰でサポートしたくなるものと思う。これも「弱み」が「強み」に変わるときなのかもしれない。

イスラームからビジネス法を学ぶ

一般的にはビジネスに関する法律を学ぼうとする人は、アメリカ法を学ぶことが多い。実際に戦後、わが国おける会社法金融商品取引法などに、アメリカ法の要素が多く取り入れられた。当然、アメリカに占領されていたし、戦後はアメリカとの経済取引が多かったので自然の流れであろう。しかし、戦前は圧倒的にドイツ法やフランス法を学ぶ人が多かった。実際、日本の法律の多くはドイツ法やフランス法と多くの類似点をもっている。よって、ドイツ人やフランス人が日本でビジネスをしようとすると警戒感なく商売ができることであろう。逆も然りである。ちなみに、日本人がアメリカでビジネスをする場合は相当勝手が違うので注意する必要がある。基本的に事業者側に圧倒的に厳しく消費者に有利で、株主や投資家も厚く保護されている。

一方、イスラーム法も重要な法律であることは事実である。有名な『悪魔の詩』を翻訳した五十嵐一氏の『イスラームルネサンス』(勁草書房、1986年)によると、イスラームを支えてきたエネルギー源は、中東一円に広がるバザールと隊商の経済であるという。およそ商人が行き交い交易するところでは、異民族、異教徒など風俗習慣の異なった人が取引する。ここに契約の観念や商法的規則が必要とされる。また、都市部では犯罪を取り締まる刑法の必要性が生じてくる。かつて地中海商人の活躍を背景としてローマ法が誕生したように、中東商人の活動がイスラーム法に結晶している。イスラーム法がローマ法と並び世界の二大法律体系であることは注目されてよいと指摘する。

地理的にも東洋と西洋の接点として独自のポジションにあるといえ、日本のような物作りで成功しているわけではないが、その地理的優位性から交易の中心地となり経済発展をしている。つまり生粋の商人といってもよいであろう。また、メッカへの巡礼もあるので人の移動の自由もある程度確保されている。言ってみればすでに自由貿易圏が16世紀以前から形成されていたといってよい。

そして未来に目を向けると、2050年にはキリスト教徒とイスラーム教徒の人口はほぼ同数となり、その後、イスラーム教徒の人口は増え続ける。ということは、イスラーム法やイスラーム教を知らなければ、ビジネスにおいても大きなチャンスを逃すということである。日本においても、すでに一部のショッピング・モールでイスラーム教徒のための祈祷室が確保されているところもある。また、イスラーム教徒が安心して食事ができるようにイスラーム法に沿ったハラール認証のレストランも徐々に増えている。アメリカがイスラーム教国との関係を度外視して、いろいろな経済制裁を発動しているが、日本がそれに便乗するようなことをしては大きなチャンスを逃すことになりかねない。ここでも、アメリカのフィルターを通してしか世界を見ていないと思考や発想が固定化し、ダイナミックな歴史の変化を見誤ることになる。柔和な発想と先見的な戦略で、大いにイスラームの世界を見に行くことも必要な時代である。

最初はシンガポールのアラブ人街を覗くだけでもいい。あるいは、世俗化されたイスラーム教国であるインドネシアを訪れることでもよい。少しずつでいいので多くの日本人がイスラームと違和感なく接するようになることが期待される。幸いにもイスラーム世界の人と日本人の相性は悪くない。1890年に和歌山県沖で遭難したオスマン帝国エルトゥールル号の乗組員を日本人が献身的に救助した史実が、トルコを親日国にしている。また、イランでは日本のドラマ「おしん」が大人気であったこともあり「おしん」が放送される時間帯に街路から人が消えるともいわれた。もちろん、日本の知識人にはイランを北朝鮮と同じように批判的にみている人も多いが、大体の人がアメリカで教育を受けている人であることに気づいておく必要がある。自分がどのフィルターを通して世界を見ているかは常に意識しておくことが大切である。

英語学習から多言語学習へ

よく英語学習にCNNが良いのかBBCが良いのかという話があるが、社会人にはとくにBBCをお勧めする。アメリカ英語が良いかイギリス英語が良いかという視点からそのようにいうのではない。そもそも日本人にとってはアメリカ英語でもイギリス英語でもどちらでもよい。世の中、オーストラリア英語もシンガポール英語もインド英語もあり、いずれにしても英語であることに変わりはない。問題は内容である。BBCは公共放送なので民間放送のCNNよりも客観的であること、植民地経営の影響なのかより国際的であること、解説や分析もより深いことがいえるので、成熟した大人にとってはBBCのほうに興味がわくと思われる。

さらに、日本人が海外の情報を接するときは、どうしてもアメリカのフィルターを通していることが多いので、自然に蓄積された海外情報に偏向がある。それを修正するためにもFRANCE 24やアルジャジーラを視聴するのもよい。FRANCE 24は公共放送で、アルジャジーラカタール政府の資本が入っているが独立性を維持する努力はされているようで、どちらもアメリカと異なるフィルターで世界を見ることができる。フランスは、アフリカや中東とのつながりも深いので、それらの地域の情報も豊富であるし、アルジャジーラはもちろんアラブ世界の情報が豊富である。しかも報道の自由が制限される地域で果敢に挑戦しているユニークな放送である点、視聴する価値は高い。

これら、FRANCE 24とアルジャジーラは英語版もあるが、現地語で視聴できたほうが世界は広がる。よって、ある程度英語学習が進んだら次の言語に挑戦すべきである。もちろん、英語学習が重要なのは理解できるが、あくまでもビジネスに便利であることはいえるが、言語学習は文化を学ぶこと、という視点で考えると、働きすぎ日本人が英語圏の文化から学び得るものは、そんなに多くはないと思える。人生における価値観や、お金に対する価値観、顧客重視の働き方などに関して類似点が多い。よって、日本人が英語圏から学び、人生にイノベーションを起こすのは難しいように思う。

一方、ラテンやアラブの世界のほうが、日本とは遥かに異なる文化を持っているので、その文化に接したときの衝撃は大きい。だから人生観を揺さぶるような学びも多い。ユーモアのセンスもかなり違う。そして、最も大切なことは多様性を維持することである。発想の柔軟性を維持して世界観を硬直させないことが人生の過ちを回避する重要な鍵になる。江利川春雄『英語と日本軍:知られざる外国語教育史』(NHKブックス、2016年)によると、第二次世界大戦前の陸軍大学校の学生の留学先は陸軍大国のドイツやフランスであった。結果的に、アメリカやイギリスを軽視する人材が軍の中枢部を占めるようになり悲惨な太平洋戦争に突入して敗戦している。外国語教育の偏向は世界観の偏りと硬直化を招き、柔軟な発想を失わせる。お金を稼ぐために英語を学ぶことは仕方ないとしても、自分の人生観までも英語の世界に奪われてしまわないように注意したいものである。

「英語を学ぶ」から「英語で学ぶ」へ

英語を学ぶことが重要なのは間違いないが、本当に英語を学ぶことで英語力が身につくであろうか。義務教育のレベルでは「英語を学ぶ」ことでよいが、大学のような高等教育機関になると、「英語で学ぶ」に転換しなければならない。もちろん、ビジネスパーソンも英語を学ぶことから抜け出す必要がある。少なくともTOEICの得点を取る学習にはほとんど意味がないといってよい。そもそも、日本と韓国以外でTOEICという英語のテストは知られていないし、その得点が意味するところは誰もわからない。試験問題を読んでも海外旅行に使える内容かもしれないが、ビジネスや専門分野の研究に使えるものではない。すなわち、たとえTOEICで満点を取ってもお金を稼げるほどの英語力は身につかないことになる。

それでは、お金を稼げる英語力はどのレベルか。自分の業務や専門分野のレポートあるいは論文が読めるレベルになる。そして、ある程度重要なポイントを理解でき、その部分を翻訳できることが必要である。すなわち、専門書を読んでそこから日々の仕事に応用できることが必要になるわけであるが、その場合、膨大な英文を読む訓練と、大量の英語を書く訓練が必要になる。よく「読み書きはできるが会話ができない」というが、そんなネイティブがいるであろうか。あるいは、日本人で日本語の読み書きができるのに、日本語で会話できない人にお目にかかったことがあるだろうか。読み書きができるのであれば会話は簡単なのが現実なのである。

また「発音が下手でもいいから、話す中身が重要だ」というのもよくいわれるが、これも極端な話で、やはり発音が悪ければ相手に通じないので発音は重要である。とくに日本人の場合、自分の発音が悪くて通じないと自分に自信を無くしもっと話せなくなるので、日本人こそ発音はしっかり学んだほうがよい。ラテン・アメリカの人は陽気なので、間違っていようが発音が悪かろうがペラペラ話し続ける。本当に羨ましい限りであるが、ほとんど理解できない英語である。それもそのはず、もらったEメールを見れば文法的な誤りも多く、読み手の真意が伝わらない構文であることも多々ある。それでも話せるわけなので、結局「読み書きはできるが会話ができない」というのは、日本人は羞恥心が前面に出て話せないだけなので、日本人の英語力の弱点を表している言葉ではないことになる。

それなのに、会話重視の英語学習といいだす日本の教育もどこかおかしい。おそらく、教育方針を策定している官僚自身も英語が苦手なのかもしれない。また、会話が重要と主張している学者も本当は英語が苦手なのかもしれない。そもそもなぜ、英語だけが「英会話」学校で、「フランス語会話」学校、「ドイツ語会話」学校、「中国語会話」学校はあまりみかけないのだろう。フランス語学校、ドイツ語学校、中国語学校はあるのだが。「英会話」というのも日本人が作り出した特別な呪文かもしれない。

それでは、なぜ日本人の英語力は上達しないのか。必要ないからというのが答えであろう。英語ができなくても日常生活に支障はない。英語ができなくても仕事はできる。さらに追い打ちをかけるように、コロナ禍で海外すら行くことがなくなって、英語など使う機会が格段に減ったということも影響してくるかもしれない。

しかし、日本にいながらに海外の事情や情報を入手することは、ますます必要な時代である。結局、英語を使って情報を取るのは手っ取り早い。EUの情報も英訳されるので、英語で重要な情報は入手できる。アジアでも、シンガポールやインド、パキスタンスリランカなどは英語が通じるし情報の取得も容易である。よって、「英語を学ぶ」発想を捨てて、「英語で学ぶ」に切り替え、どんどん海外の情報を入手し、日本での活動に有効活用してイノベーションを起こすことが必要になる。文字通りの英語学習はそろそろ控えめにしたほうがよい段階にきていると強く感じる。

「理論と実務を架橋する」実践の難しさ

「理論と実務を架橋する」「理論と実務の橋渡しをする」ということはよくいわれるが、これほど頻繁に聞くにもかかわらず実践が難しいものもない。研究者は学術の世界に安住し、簡単なことを難しい表現で表し、実務家は日々の業務に忙殺されて、日々理論的な整理をごまかしながら業務を進めていく。よって、なかなか両者が交わる機会がないものである。そもそも学術的という言葉の意味はなんなのであろうか。学術的に価値があるとはどういうことでろうか。どんなに専門性のある論文であろうとも、誰にも理解されない、誰にも参照されないものでは、社会を良くしていくための原動力にはならない。頻繁に使用される「学術的」に価値があるなどという表現もその内実を再考する必要があると思う。

それでも、本当に優秀な研究者の中には、どうして大学の研究室にいながらこんなに興味深い論点や切り口を見つけられたのだろうと思う方も多い。自分の専門の保険法の分野でもまるで現場を見てきたかのような論文も見かける。そのような研究者は、ぜひ企業実務家と問題意識や課題設定を共有して、共同研究による共著論文を出されたらよいと思う。あるいは、むしろ別々に論文を出すのもよいと思う。なぜなら、同じ課題設定をしていながら、学術の世界で訓練を積んだ人と、実務の世界で訓練を積んだ人の視界が異なることがあり、その多様性が学問や社会の進歩に貢献する可能性があるからである。

それでは、どのような方法があり得るであろうか。たとえば、学会や大学の研究会などに実務家を呼び、現場で直面する課題の具体例を説明してもらう。それをケース・スタディーとして研究者が調査研究することで、ある一定の解を提示するようなことがあってよいと思う。学会や研究会でプロジェクトを立ち上げ、そこに企業実務家が参加するのであれば、社会科学系であれば、大きな予算も不要になる。あるいは、研究者が企業のアカデミック・アドバイザーとなるのも簡単な方法であろう。もともとは、大学生に個別指導や助言をするのがアカデミック・アドバイザー制度であるが、それを企業にまで拡大するのである。研究者側は営利目的でなくても良いはずである。現場の事例や情報が入るだけでも、自分の研究がダイナミックに進化する。企業側も実務を離れて一呼吸おける立場の研究者の見解に、多くの気づきを見いだせるはずである。

研究者側は営利目的にしてしまうと、利益を出さなければならないプレッシャーから、結局実務家と変わらない環境に身を置くことになりイノベーションが起こらなくなるので無償でよいと思う。無償が問題であれば、月1-2万円でもよいであろう。とにかく営利という要素を排除してみる。企業側は情報漏洩など問題とするかもしれないが、本当の機密情報は加工して客観化し情報提供すればよい。そもそも社会科学の発展に寄与するための企業内の情報など、そんなに機密性のあるものはない。工学や理学など特許にかかわるような情報と異なり、通常の企業における事例やビジネス・モデルに関する情報など、そんなに価値のあるものではない。本当に重要なのは、その事例やビジネス・モデルを使って「誰が」それを実行するかが重要なのであって、他社がそのアイデアを盗んだところで、そう簡単には事業化できないものである。

そして、お互い営利を度外視したゆるい関係の中でなければ本当のイノベーションは起こらない。そのような関係性を構築できる研究者と実務家の連携が今後重要になるのは間違いない。10年先、20年先を見て、次の世代に何が残せるかというくらいの大らかな共同研究でなければ、おそらくお互いが相手から何を盗んでやろうか、どんな情報を得てやろうか、というような関係になり、最後はお互いが搾取し合うみじめな状況が待っていることになる。お互いが与え続けるくらいのゆるい関係が、偉大なイノベーションを誘引する引き金になると考える。

スペシャリストは複数分野の専門家になる

速水融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』(藤原書店、2006年)というかなり分厚い本を読んで驚いたことは、著者が経済史と歴史人口学が専門であるということ。感染症や医学の専門家ではない著者が、あれだけ大きな被害をもたらしたスペイン・インフルエンザについてあまり注目されることもなく、後世に伝える研究資料もほとんど残っていないのことを不思議に思い研究をはじめている。まず、一つの分野を極めた人は別の分野でも素晴らしい研究をされるのだと感服した。おそらく、歴史人口学で培われた研究手法や理論構成が、スペイン・インフルエンザの調査研究にも活かされたのだと思うが、ある分野を極めた人は隣接分野や、まったく異なる世界のことに関しても専門家になれてしまうのだろう。

同じことは語学の習得についてもいわれる。英語をある程度マスターした人は、次の外国語も素早く学べるという。しかし、早く学べているというのは感覚的なことで、実は学びのスピードやプロセスは同じなのかもしれない。よく一か国語がマスターできれば数か国語を簡単にマスターできるなどというが、やはり普通の人には複数言語を一気に学ぶのは至難の業である。

少なくとも英語を習得するプロセスは膨大な時間が必要で労力はかかり、それなりの投資も必要になる。よって、それを一度経験した人は次の外国語の習得においてもどれだけ時間を要し、どの程度の努力をすれば、どのレベルに到達できるということを知っている。仮に第一外国語を英語として、第二外国語をフランス語としよう。英語マスターの苦難の道のりを知っている人は、フランス語マスターの道のりも想像がつく。そのため、上達のスピードが遅いことや、どのようなプロセスで上達するかということを知っている。そして、あまり効果のない勉強法があること、あるいは、どのような教材を使えばよいかということ、読み書きや話す、聞くなどのバランスをとるべきことなど理解しているので焦ることがない。ということは、最初の外国語を学ぶときに直面した課題を、二番目の外国語の学習にも応用できるのでストレスが少なくて済んでいるともいえるであろう。そして、三番目、四番目と外国語の学習を進めていくと、苦労を経験するメカニズムを知っているので、苦労を苦労と感じなくなるというだけのことだと思われる。

このような効果を考えると、人生の早い段階で専門分野を確立しておくことは重要である。ある一定レベルの専門性を身に着けるためのプロセスや労力、投資コストを知っていることは、次の分野への展開にも応用が効くということである。たしかに、どこから情報を取り、どのような人の意見を聞くとよいのか、あるいは、研究の段取りや手順はどのようなステップを踏めばよいのか容易に理解できるようになる。結局、若いうちにどの分野でもオンリーワンになれる特定分野をみつけておくことは有用である。現実にその分野の権威になっている必要はない。自分で当該分野の専門家であるという自覚を持ちつつ、時間をかけて自分の専門性を醸成していけばストレスも少なくて済むであろう。