職人的生き方の時代

自分だけの生態学的ニッチで生きる

「人間は必ず死ぬ」という前提の政策決定

著名な科学者が動画で学生に自粛を呼びかける。みなさんの賢い行動が人の命を守るという。皆さんの大好きなおじいさんやおばあさんを守るという。それは端的にいうと自粛しない若者は愚かであるというメッセージのようでもある。しかし、本当にそうであろうか。多くの若者が閉塞感にさいなまれ鬱になり、経済を止められたことでアルバイトができずに困窮する。大学の授業もまともに受けられず、授業料だけは払わされる。なぜ高齢者のために彼ら彼女らは犠牲にならなければならないのであろうか。ある自治体では高齢者のインフルエンザの予防接種を無償化する。その予算はどこから来るのであろうか。あらゆることで、今の若者はついていない。明らかに高齢者よりも未来のあるはずの若者が犠牲を強いられている。

なぜこのような不条理なことが起きるのか。何もしなければ10万人死亡するといわれたが、対策をとったので1000人台で収まったのか。自然科学の世界では10万と1000の違いを「誤差」というのだろうか。自然科学の素養が欠ける筆者でも誤差の範囲ではないかことくらいはわかる。誰がみても単純に専門家の予測は誤りだったのである。ある医者がいうには、年間風呂場で発生する死亡事故は年によって3万件から5万件あるそうである。風呂に入るときにそんなに恐怖を感じることがないのに、なぜコロナウイルスは別格なのか。結果的に、その専門家の予測に煽られて経済は大打撃を受け、航空会社や旅行会社、ホテル、旅館、エンターテイメント等は息の根を止められそうになっている。来年の就職を予定していた若者は仕事が見つからない、有効求人倍率は1倍を切る勢い、完全失業者数は200万人を超えた。

ところで、前提として「人間は必ず死ぬ」ということをスタート地点にすると取りうる戦略は変わってくるであろう。誤解を恐れずにいうと、高齢者からこの世を去っていくのは自然の摂理に沿った現象であり特別なことではない。新型コロナウイルスに限らず、他のウイルスでも高齢者の死亡率は高い。当然のことを当然のこととして受け入れることができる。一方、経済に強烈な一撃を与えて社会を麻痺させ、若者を危険にさらすことは自然とはいえない。第二次大戦に突入して多くの若者を失った決断とあまり大差はないように思える。

政治家は有権者をみて政策を決めるわけだが、少子高齢化で高齢者の有権者数は増えている。また、選挙のときに投票にいくのは、時間に余裕のある高齢者である。私も投票には必ず行くが本当に老人が多い。このような状況で、どうしても高齢者優先の政策をとらざるを得ない状況が作り出される。清水仁志「シルバー民主主義と若者世代~超高齢化社会における1人1票の限界~」(ニッセイ基礎研究所、2018年)にも端的にそのことが示されている。高齢者に配慮するために国として本来実行しなければならない政策がとれない。近いうちに消えゆく老人のために未来への投資ができないわけである。もちろん、そのシルバー世代が去ったあとはシルバー民主主義も終焉を迎えるわけだが、そのとき日本は活力を失っており、再生する余力もなくっているかもしれない。高齢者は人生の最期の責務として、次の世代に何を残せるかを考える必要がある。また、政治家も研究者も、本当に必要な対策が何かを今一度再考する必要があるのではないか。少なくとも科学者の学生に語りかける動画に、学生の未来があるとは思えなかった。むしろ大人のわがままのようにしか聞こえなかったのは私だけだろうか。一度、その動画を静かに視聴してみることで、自分がどちらのサイドに立っているのか感じることができると思う。