スペシャリストの生き方

自分だけの生態学的ニッチで生きる

経済的な豊かさと相関する英語力

英語の運用能力と収入は比例するのであろうか。相関はあるかもしれないが、ある一定のレベルになれば影響はなくなると断言できる。TOEICの900点と800点で年収の差が生じるとは思われない。それよりも問題は業務知識の厚みであり、英語の運用能力の差ではない。最近はWeb会議も増えて海外とのやり取りも容易になっている。そこで、900点の人が800点の人より有意義な会議ができるかというとまったく関係ない。聞いている側のアメリカ人やイギリス人にしてみれば、TOEICの点数の違いなど認識できない程度の誤差でしかない。しかもTOEICが本当に業務遂行するための英語能力の測っているとも思えない。たとえ700点でも600点でも議論のポイントを突いた発言ができ、相手に付加価値を提供できることが大切なわけで、ネイティブのように流暢に話せることは重要ではない。たとえネイティブのように話せても、まったく付加価値のない話を延々とされると、単に相手の時間を奪っているだけなので意味もない。ただ、ちょっとした冗談のセンスは必要で、その場を和ませるのに有効である。

良い仕事に就くために英語を学ぶというのは、長い歴史をみても確実に存在した事実であり、これを否定することはできないようである。平田雅博『英語の帝国』(講談社選書メチエ、2016年)によると、19世紀頃の様子が書かれたある報告書に次のような記述がみられる。現在のイギリスの一地方であるウェールズにおける親たちは、子どもが英語を話せると世間を渡っていける、でも英語を話せないと、そんなことはできない、と認識していたようで、平日の学校はおろか日曜学校でもウェールズ語を学ぶことに反対していたという。そして、ケンブリッジ大学ウェールズ人がウェールズ訛りの英語を話すと笑われたようであるが、その後努力して立派な人材になったものもいたそうである。また、イングランドからウェールズに移入した人たちは、ウェールズ語を学ばなくても、上司の言語が英語であり、商業の言語が英語であり、成功のための言語も英語で、子どもにとっての学校での言語も英語なので、問題なかったと書かれている。イングランド人にしてみれば圧倒的に楽な環境を手に入れることができたことになる。

同じく19世紀の報告書によると、アイルランドでも商業の言語として英語が使われ、身内との会話でゲール語が使用されていた。当然、現在でもアイルランドにおいて英語は公用語として通じるわけであるが、宗教はカトリックを維持することができたが、経済の力に押されて言語は英語によって征服されてしまったということであろう。

インドやアフリカの一部でもローマ帝国でのラテン語と同じく、法律、行政、商業の言語として英語が採用された。同じ国内でも異なる言語を話す彼らにとっては英語が共通のコミュニケーションの道具となり、英語ができる者は、容易に経済的な優位を獲得できたという。

悲しいかな経済的な豊かさを獲得するためには、英語を学ぶ必要があることを認めざるを得ない。しかし、私たちには日本語がある。実は日本語が参入障壁となって私たちの仕事は守られているといってもよい。想像してみても、自分の業務に使う日本語の専門用語を駆使して、流暢に話して仕事をしている外国人は少ない。英語が上手なあのオランダ人でも、Web会議の途中で断りを入れ、オランダ人同士でオランダ語を使用して確認させて欲しいとお願いされたことがある。微妙なニュアンスや言い回しは誰でも母語のほうが安心なのは当然である。英語を磨けないとあきらめた人がいるとしたら、圧倒的な日本語運用能力を身につけ経済的な優位性を獲得することもできると思う。それでもある一定レベルの英語ができればいいに越したことはないが。