スペシャリストのすすめ

自分だけの生態学的ニッチで生きる

森会長にも「表現の自由」を

東京五輪パラリンピック組織委員会森喜朗会長が女性蔑視発言で批判を受けている。おそらく本人に悪気はなかったのだと思う。自分の思いを吐露しただけで猛烈な非難を受ける結果になった。そもそも森氏の年代であれば、あのような発言が本音の人が多いのかもしれない。受けてきた教育、生きてきたい時代背景が今と違うので仕方がない。そもそも、表現の自由の観点からは何も問題のない発言である。

戦前生まれの同じ年代の男性は、おそらく「このようなことをいうと非難されるのかぁ!」と驚き、襟を正した方が多いかもしれない。また、同じ世代の女性は、「現代社会では受け入れられない発言なんだ! なんと時代は変わったのかしら」くらいに思っているのかもしれない。そんなことはないという戦前生まれの方がいたとしたら、西洋社会に留学経験があるようなかなり進歩的な人であろう。ただし少数派ではないか。

かなり以前の話になるが、森氏と同じ世代の教育者の方が、アメリカのロサンゼルスで起きた黒人の暴動のニュースを視て、「黒人は程度が低いのだろうな」という発言をしているのを聞いたことがある。あの年代で大学も出て、教養もあるはずで、教育界でそれなりの地位についていた人の発言であったが、本人にしてみれば違和感のないコメントだったのだろう。

また、今回の森氏の発言に対して海外のメディアも一斉に批判の声をあげているが、過去の日本社会を知らない彼ら彼女らに的を射たコメントはできないと思う。私がインドのある地域に女児殺しの習慣があること、インドネシアで同性愛が有罪でむち打ち刑になること、ムスリムの女性がベールを身に着けおしゃれの自由がないことなどに、何の非難の声もあげられないのと同じではないだろうか。もちろん、もっと寛容な社会で自由を謳歌できたらよいのにとは思う。自分の娘には日本に生まれてよかったね。日本が息苦しければヨーロッパに住んでもいいよ、くらいはいうと思うが、ただそれだけである。

結局、森氏にしても、くだんの教育者にしても、自分の知らない世界、みえていない世界、経験していない世界の基準で発言はできないわけなので、わたしは「仕方がない」で片づけるしかないと思う。とりあえず、それしか方法はない。若い女性アナウンサーの中にも、「呆れる」とか「うんざりする」という声も聞かれるが、中立的な立場にいる私から申し上げられることは、「あなたとは「違う」教育を受け、世界を生きてきた人ですよ。それ以上でもそれ以下でもないと思います」というだけかもしれない。

まず、私たちは声高に批判をする前に、そのような人をわが国の総理大臣にした人は誰なのか、その後も政治経済に影響力を維持できたのは誰のおかげなのかを考え、次の選挙にはかならず行くこと、小さなことから寛容で進歩的な社会を作ることに注力することではないだろうか。少なくとも誰にでも表現の自由はあり、自分の好き嫌いをいう権利があり、その権利を必死で守る必要があることを忘れるべきではないと思う。

「未来への投資」を忘れた日本の高等教育

酒井吉廣「コロナで待ったなし、国立大学の改革を支える自主財源の拡大」金融財政事情72巻3号(2021年)を目にした。昨年、東京大学が大学債を発行したのをきっかけに、大学の独自経営には自主財源の拡大が必要ということである。

世界の大学債は、残高ベースでアメリカが世界の約7割を占めるそうである。その事実をみれば、アメリカの大学は資金調達に積極的で競争原理の中で戦っており、だから世界ランキングにも常に上位にくるのだろうと思う。

その真似をして東大も大学債を発行するということであるが、なぜ国立大学が借金をしなければいけないほど、日本の高等教育が落ちぶれてしまったのかと思う一面もある。

あらためて、東大の財務諸表をみてみたが、民間企業の資本金にあたるところに「政府出資金」があり約1兆円と記載されている。ちなみに、学校法人としての私立大学の資本金は「基本金」というようである。そして、東大の大学債の発行額が200億円で期間が40年ということであるが、政府が200億円増資して政府出資金を1兆200億円にすることで済むことだと思った。

そもそも、40年の償還期限が来る頃に、大学債を発行しようと意思決定した人も、その大学債を購入しようと意思決定した投資家もこの世に存在していないのではないか。格付情報センター(R&I)によると東大の信用格付けがAA+で安定的ということであるが、国家が債務不履行を起こすことはあるのだから、国立大学であれば破綻しないとは言い切れない。

東大にとって大学債はそもそも借金であり、いずれは返さなければならないお金である。借りたお金をもとに儲けて借りた金額以上の額を投資家に返済する必要がある。投資家は金貸しをしているだけで慈善事業ではないので、期限には金利を付けて返してもらわなければならない。このような構図であるが、国立大学の本来の資金調達方法は国が資本として投入すべきものではないかと思った。

なぜ、日本の大学もアメリカやイギリスのように自由主義経済の中で運営されなければならないのだろうか。各大学が気にする世界ランキングもイギリスのタイムズ紙のもので、彼らが英語圏以外の大学を評価できるわけがないように思う。しかし、日本人は日本の大学には競争力がなく、世界ランキングにも上位に入れないと嘆く。

しかし、そもそも英語圏の雑誌が作ったランキングなので、英語圏に留学生を呼び寄せるマーケティングの道具でしかないはず。よって気にする必要などまったくない。また、競争力が必要というが今の日本の大学をみれば不毛な競争の中で疲弊してしまいイノベーションなど起こりようがないと思われる。無駄が多く回り道する余裕があるときにこそイノベーションは起こるのであり、毎日、研究費を獲得するために企画書や申請書ばかり書いているようでは、イノベーションが起こりようはない。

そもそも政府が増資せずに国立大学に大学債を出させるということは、大学に自立して稼げということをいっているのだと思う。大学債は社債と同じく、いつか決められた利回りを付けて償還期限に投資家に返済しなければならない。よって大学は儲けるということが前提で、ビジネスとして運営を考えろということであろう。しかし、本来高等教育については、国が「未来への投資」ということで資金提供すべき分野のはずである。日本の場合、国がその役割を放棄したことになる。ここでも自助努力が必要ということであろう。高等教育をビジネスと考える発想はアメリカからきたものとしか思えない。

未来への投資によって高等教育を受けた人が社会で活躍して、いずれは税金を支払ってくれる存在になる。今、優秀な人材を育てる投資をして、その人たちに稼いでもらい、世界で事業展開してもらい、将来その投資資金を税収という形で回収する発想が今の日本にはない。あるいは、その優秀な人材が新しい事業を次々起こして日本経済を活性化するという未来がみえていない。結局、今しかみていない人には未来への投資はできない。競争原理、自由市場経済、自己責任、自助努力などを格好のいい理念だと思っていれば未来への投資という発想にはならないのであろう。

世界をみればドイツやフランスの大学では授業料が不要で登録料のみで済むし、ノルウェーの大学なども留学生を含めて授業等は無料ということである。あらゆる人に教育を受ける機会を平等に提供し、未来の国を担う人材を育てようという思想があると思う。あるいは、世界に貢献できる人材を育てようということかもしれない。そこには金儲けの発想は微塵もない。

前出の酒井氏は、日本の大学は授業料が安く、寮費などもの生活コストも非常に低いという特徴がある、という。アメリカやイギリスしかみていない有識者がいう典型的なコメントかもしれない。「海外=米英」になっているとしか思えない。アジアや中東、せめてヨーロッパ大陸ぐらいみてほしいと思う。

 

新しい生活様式「3つの楽」のすすめ

いつまでたっても明るいニュースがなく、毎日飽きもしないで「コロナ、コロナ」である。このような閉塞した社会に対して、どのような視点をもって対処したらよいのか。私の場合、3点あり、①直感を楽しむこと、②多様性を楽しむこと、③曖昧さを楽しむこと、以上である。これらは「3つの密」ならぬ「3つの楽」であるが、一見過酷な現状をうまく乗り切る重要な概念としている。

すなわち、科学も誤ることがあると認識し自分の直感も大切にすること。異なる意見や考えも大いに取り入れ多面的で多様な分析を尊重すること。そして、どうしてもわからないことは曖昧さにも耐え受け入れることである。

世の中の趨勢がおかしくなっていく中で、今の騒動に懐疑的な考えをもっている人が増えつつあると思う。そして、私自身の考察について「自分も同じように考えていたのだよね」という人が多いのではないかと思いはじめた。どうもみんな薄々気が付いているけれども、周りがそのような雰囲気ではないのでいい出せない、という人が多いのではないか。

最近、本屋で小林よしのりゴーマニズム宣言SPECIALコロナ論』(扶桑社、2020年)に接した。手に取って読むと笑いが出た。マスクをしていたので、ニヤニヤしている表情は誰も気づかなかったかもしれない。そして、他に買う予定であった書籍をやめて、『ゴーマニズム宣言SPECIALコロナ論2』(扶桑社、2020年)と一緒に2冊購入して読むことにした。

自宅で読みはじめて驚いたことがあった。それは、小林氏と考えがある部分で似ているところが多かったということである。このような書籍があることをネットで知っていたものの、マンガに縁がない自分にとっては購入する必要はないものと思っていた。しかし、本屋で目にした偶然から、書籍の内容も単なるマンガではなく、医学、歴史、哲学、政治、経済、法律など幅広く丹念に情報を調べて描かれていることが理解できた。

もしこの世の中にアカシックレコード、あるいは真実らしい情報が詰まっている異次元が存在するとするなら、おそらく同じ情報に接していたのかもしれない。ある直感を得てアクセスする次元に同じ情報があったという仮定も成り立ちうると思った。

そして、一つの希望が芽生えた。意外に多くの人が同じような直感を得ているのではないか。ただ、今は表現の自由を主張するのもさしさわりがあるので、みんな沈黙を守っているだけなのではないかということである。「隠れキリシタン」ならぬ、「隠れポジティブ派」とでもいおうか。もしそうであれば、どの程度のポジティブ派がいるのか興味深いところである。

おそらく、約1割弱がポジティブ派ではないかと思う。理由はニュースに対する世の中の反応からそのように考え得る。たとえば、自粛要請に従わないこと、マスクをしないこと、会食をやめないことなど、これらのニュースに対してほとんど批判的なコメントがあがっている。それ自体に注目すべき点はないが、批判的コメントに対して親指が上を向いている「いいね」の意思表示が9割以上で、親指が下を向く「同意しない」意思表示が1割以下であることに注目すると、ネガティブ派とポジティブ派の割合は想像できる。

そして、もしポジティブ派がある一定割合いれば、その人たちが声を上げるだけで世の中の流れは大きく変わるように思われる。その人たちが隠れているだけなので、顕在化するだけよいのである。私はそのタイミングが2021年の春ではないかと思った。日本企業も3月末決算のところが多い。このようなことを継続していられないとう思いが経済界にも蔓延するであろう。1割以下のポジティブ派が2割まで増えれば、まるで腸内の善玉菌の現象と同じように、社会のバランスが取れるのではないだろうか。

100年前のスペイン・インフルエンザの史実を詳細に記録した、速水融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』(藤原書店、2006年)によると、パンデミックが収束した要因はわからないという。医薬でもなければ、ワクチンでもなく、あるとき、まるで役目を終えたかのようにすっと消滅している。その後、関東大震災日中戦争、太平洋戦争のような大きな出来事のために、パンデミックがあったという人々の記憶さえも忘却の彼方へ消えてしまった。よって、コロナも役目を終えたと思ったときに消えるのではないだろうか。

自分は普段風邪を引いたときに3日断食をして治すようにしている。日ごろから朝抜き断食で一日二食の生活を送っているので3日間の断食は慣れている。本来は医師の指導を受けながら3日断食をしないと危険なようであるが、幸い私の場合は問題が起きたことはない。

今の世界の状況は、まるで健康を回復するために3日断食をしたが、まだ回復していないということで断食を継続し、いよいよ自分の命が危険な水準まできてしまった状況に似ている。ここで少しずつ食事を取って普通の生活に戻していかないと、ますます死に近づいていくことになる。しかし、人類もさすがに気が付き、再び食事をとりだすのではないか。

自分にとっての重要なポイントは、人生を楽しむということに尽きる。感染症に怯えて生きていてもおもしろくない。与えられた条件の中で楽しむということである。

自分の中で整理した概念を三つ再掲しておく。①直感を楽しむこと、②多様性を楽しむこと、③曖昧さを楽しむこと、以上である。これらは「3密」ならぬ「3楽」であるが、この三つのことを心がけていれば、意外にコロナ禍でも人生を楽しめるものである。

おそらく、今の状況を楽しんだ先には格段に進歩した世界があり、柔和な人生が待っているような予感がする。私の思い過ごしかもしれないが、もし賛同いただける方が実は大勢いたということであれば、それはそれでうれしいことである。

見えない世界を信じる哲学

多くの人がマスメディアによって煽られ、感染症の恐怖および死の恐怖から逃れられなくなっている。自分の死に対して恐怖を感じ、身近な人の死に対して悲しみを感じるのは自然である。しかし、感染症というたった一つの病気にどうして人々を恐怖に陥れるようなパワーが与えられたのか不思議である。

この力の源泉の一つは、やはりマスメディアであり特定の専門家の発言であろう。その力に対抗するのは至難の業である。インターネットが普及したとはいえ、まだまだ情報収集をマスメディアで行う人は多い。それだけ影響力はあるし、高齢者であればなおのことマスメディアに依存することになる。

それでは、われわれ一市民としてできることは何であろうか。一人ひとりが死の恐怖から解放されることではないだろうか。死の恐怖さえなければ、マスメディアの報道に一喜一憂もしないし動じなくなる。そして、他者の見解も受け入れつつ自分の独自の世界観や哲学を持って生きていくことができる。

たしかに、私たちは葬儀のときに失った人を偲んで悲しくなり涙を流す。二度と会えないと思い、二度と触れることもできないと思うと悲しい。しかし、亡くなった本人が魂として別の次元に移ったと考えられれば、ほどなく悲しみを感じることもなくなる。むしろ遠く離れて住んでいた親が亡くなった場合は、肉体がなくなり魂のレベルになり、地理的な要因を飛び越えて身近に感じ、いつでも対話できるようになるのではないか。

また実利的にもあの世の存在を信じるほうが幸福感を得るにはよいようである。Insa Bechert, Are Religious People Happier than Non-Religious People? ISSP Data Report: Religious Attitudes and Religious Change (2013) によると、宗教的な人と世俗的な人を比較すると、あの世を信じる宗教的な人のほうが幸福感を感じているということである。たしかに永遠の魂を信じていると、あの世に行けば肉体を離れるので、食べる必要も寝る必要もない。トイレに行く必要もないし、仕事に行く必要もないことになる。なんとも安楽な生活が待っているように思えば、そこはかとなく楽しみでもある。そうであるなら、あの世があることを信じることで死の恐怖から解放されるほうが人生は楽になる。

たとえば、臨死体験をした人には個々の点で違う部分もあるが、ある点で共通していることがあるという。中島宏昭『医者だからわかった「三途の川の渡り方」教室』(幻冬舎、2019年)によると、臨死体験をした人のほとんどが、自分が会いたかった人に会ったという。会いたかった人というのは、自分より先に亡くなった人たちで、たいていの場合は自分の親になる。親は亡くなるときは半身不随であったのに、そこでは手足を自由に動かしていたとか、生前の体の不具合は消えていたようだという。そして、会ってともに過ごした場所は、温かい光に包まれ、輝いているが決してまぶしくない光だという。

この医師の体験では、ある70代の患者が酸素吸入をしても動くことができなくなったので、苦しそうな患者の上にまたがり心臓マッサージを続け数分後に患者が自発呼吸に戻った事例がある。その後、患者が落ち着いたときに意識がなかったときのことを聞いてみたら、患者の視界には、お花畑があり、川のせせらぎが聞こえて、どんどん歩いていくとお寺がみえたそうである。そして、三人のお坊さんが自分に背中を向けて座っていて、そのうちの一人が振り返り「これが最後だぞ」といって数珠を投げられたら意識が戻り、中島医師を含めてみんながいたという体験をしている。

エリコ・ロウ『死んだ後には続きがあるのか』(扶桑社、2016年)にも多くの臨死体験の事例が報告されている。

あちらの世界に行ったときに一人の女性が本人を案内してくれた。知らない人であったが、その後、この世に戻ってくることができた。そして、遠く離れて住んでいる母親から一枚の写真が送られてきてみると、それはあの世で出会った女性であった。実は、その知らない女性は、ある事情で本人がその人生で会うことなく、知らないうちに亡くなっていた実の妹だったのである。

一般的に西欧人の場合は三途の川ではなく、トンネルに入っていくという体験をするようであるが、いずれのケースも向こうの世界はよかったという感想がほとんどである。そして、神様のような何か偉大な存在を感じるという。私はみたことがないので、どうもあちらにはすばらしい世界があるようだとしかいえないが、このような哲学が人々に幸福感をもたらすゆるぎない基盤になるのではないだろうか。

結局、恐怖を煽るマスメディアや専門家あるいは効果的な政策を打ち出せない政治家を批判しても解決にならない。批判すればするほど彼ら彼女らは力を得る。抵抗すると相手はますます強くなる。よって、一人ひとりができることは、それを否定することではなく、受け入れつつ泰然としていることではないだろうか。そのためには、前述のようなゆるぎない基盤を獲得する必要があり、それに基づき自分の考えをしっかり持って動じないでいることである。

何とも怪しい哲学だと思う人もいるかもしれない。しかし、人間は自分がみたものだけが実在と思っていると過ちを犯す。医学博士で宮司である葉室頼昭氏は『〈神道〉のこころ』(春秋社、1997年)中で次のようにいう。犬がみている世界と人間がみている世界が異なるのは眼球が違うからだと。今の生物学ではおそらく犬がみている世界は白黒だとされる。一方、人間はカラーにみえる。そうするとどちらが本当なのだろうとなるが、どちらが本当かわからない。しかし、人間は人間中心でなんでも考えるので、人間がカラーにみえたらこの世の中はカラーになってしまう。

しかし、真実は感じる波動が違うだけだ。人間には自分の眼球で感じる波動しかみえないし、犬には犬の眼球で感じる波動しかみえない。ところが波動というのは無限にある。そして、真実がどこにあるのか決めるのは相手ではなく、自分だということ。この世の中、みえないものが真実であり実在である。宇宙はみえないが、人間がみえることはほんのわずかということである。

よって、自分がみえている世界と違う考えや世界観があったとしても否定する必要もない。自分でできることを行い、自分で構築できる世界観を地道に構築し、自分の知らない世界から得られた新事実を徐々に追加して進化していけばよい。今の科学で感知できないこと、説明できないことは無限に存在していることをもう一度思い出し、より寛容に、直観も使いながら、曖昧さにも耐えつつもっと快適に生きていくことが、これからの一市民としての哲学に必要な要素ではないかと思われる。

あちらの世界への助走期間

スーパーにある消毒液で念入りに手の消毒をしている高齢者がいた。手指の爪の間まで液体が届くように消毒している。また、屋外で人がすれ違うときも、極度に警戒して恐怖におののいているのも高齢者が多いように思われる。人は年齢を重ねれば死生観が確立して、ちょっとやそっとのことでは動じないものかと思っていたが、どうもそうでもないようである。人生の長さとその人の哲学の成熟度は比例しないといことかもしれない。

日本の医療現場における死生観というのもかなり脆弱なようである。一日も長く生き続けることが至上命題であり、患者の死は敗北のような考えがある。患者の家族も命の質よりも長さを求めるので、そのような発想になる。しかし、患者の死が敗北であるなら人は必ず死ぬのであるから医師は一生勝ち目のない戦いを強いられていることになる。それは不条理である。

患者からも家族からも、満足のいく医療の提供ができればそれで十分であるのに、命の長さに何かしらの価値があるのだろうか。延命治療なども本人にとっても不幸であるし、家族にとっても苦痛であるはずなのに、なぜか命の長さを基準に医療の評価もなされているように思える。数字で表せる客観的な指標だからだろうか。

人生80年時代が90年時代を目指すことになり、最近は100年時代ともいわれ、死がどんどん遠ざかっていく。第二次世界大戦後の日本は、人生50年時代といわれており、私などは寿命が尽きていてもおかしくない年齢である。そして、明治時代や大正時代は、30代後半から40代前半の寿命であった。さらに1603年から1868年まで続いた江戸時代は、30歳から40歳くらいだったようである。このような時代に比べれば約2倍の長さの人生を生きることになっているわけだが、この余分に伸びた人生はなんのためにあるのか。

たしかに、今自分の寿命が尽きると、私の3人子どもたちは困るので今は死ねない。結婚や出産が後ろにずれた分、人は長く生きることになったのだろうか。昔であれば、子どもを産んで育てたら、役目を終えてあの世にいっていたものが、今はどうもそのようなことではない。そうであれば、孫を育てるためかと思いきや、普通は子どもと別居しているので、孫など育てる想定ではない。この余計に頂いた人生は何のためにあるのか謎である。

もしかしたら生老病死とじっくり向き合い思索についやす時間なのではないだろうか。そして、より魂が進化した状態であの世に戻るための準備の期間なのかもしれない。しかし、現代の長寿社会では、時間を使うためのあらゆる商品・サービスが存在し、気を紛らわしてくれるので、ますます死が遠ざかるのである。そして、今回のコロナ禍によって決定的な課題を突き付けられた。まず生きることが目的になり、何のために生きているのかに焦点が定まらない。必死でマスクをして、入念に手を消毒し、自分だけは感染しないように防御を固める。「コロナだけにはなっちゃいけないね」と世間話しをしながら、おそらくは別の死因でこの世を去る人がほとんどなはずなのに。

アウシュビッツ強制収容所の体験記録を残した精神科医のV.E. フランクルは、『夜と霧』(みすず書房、1961年)の中で、ある興味深いエピソードを書き残している。強制収容所内で1944年のクリスマスには釈放されるという噂が人々の間で広まった。多くの人が強制収容所から解放されて死を免れるという希望を抱いた。しかし、まもなくクリスマスが到来しても、誰も釈放されることなく、その希望は絶望へと変わってしまう。そして、驚くべきことに、多くの人がバタバタと集団的に死亡するという事件が起きたのである。つまり失望することにより、多くの人の免疫機能が低下して、今まで人々の体内の中で発病することがなかったチフス菌が暴れだし、大量の死者を出したのである。

人生において、もはやなにも期待するものがないとわかると、人間は生きるためのエネルギーが枯渇して死に至るということだろうか。何か希望がある限り人間は意外にも生き続けられるということである。そうすると、江戸時代の人と比較して余計に40年の人生を与えられた私たちは、どのような希望が必要なのであろうか。

私は、あの世の存在に希望があると思える。現代科学は死を遠ざけ、あの世について前向きに研究しようとはしない。しかし、ある人がいったことに機知に富んだ興味深い指摘がある。「あの世は相当いいところのはずだ。なぜなら誰も戻ってきた者がいないのだから」。あの世の存在を真剣に考えて、わくわくするような世界を探求することで、多くの希望が湧いてくる。ある意味、余計に残された40年は、あの世への助走期間でしかないのかもしれない。そして、その残された時間は、あの世をもっと身近に感じ探求することで、すこしでもわかったことや仮説を次の世代にも伝えて、死の恐怖から解放してあげることなのではないだろうか。後から来る旅人のために、地ならしする役目と責任をわれわれは負っているのかもしれない。コロナ禍を題材に少なくても我が家では死をタブーにすることなく、自分の死も含めて大いに対話するようにしている。

人は生きているだけで迷惑だ

新型コロナウイルスに感染し、周りに迷惑をかけたということで自殺した女性がでた。結局、この感染症を特別扱いしすぎた結果の副次的被害ではないだろうか。なぜ、このウイルスを日本で特別視し続けなければならないのであろう。死者数が飛びぬけて多いというのであれば理解できるが、そうではない。

おそらく、政治家は自分の過去の発言や政策が正しくあり続けるには、新型コロナは強力なウイルスであってもらわないと困る。感染症の研究者も、今までは学問としては傍流だったが、これからは本流であり、研究予算もしっかりつくように新型コロナは特別であってもらう必要がある。マスメディアはさんざん煽ってきたのだから、もう後戻りはできない。このようなところではないだろうか。みんなどこまで突き進めば気が済むのであろうか。感染しただけで自責の念にかられた自殺者まで出しておきながら。

ところで、なぜ新型コロナに感染したことで、周りに迷惑をかけたと思ったのだろうか。どうしたらこのような自殺者が出ない社会になるのだろうか。「恥の文化」や「罪の文化」などで説明しきれない、日本の独特の考えが潜んでいるようである。

まず、フランスで感染者がメディアに出るときに、顔を隠すことはない。麻薬の運び屋、移民の不法滞在者など違法行為をしているものが顔を隠してインタビューされることはあるが、たかが感染症に罹患しただけで顔を隠すことは皆無といってよい。FRANCE 24やTV5MONDEなどのニュースがネットでみられるので確認しても、そのようなケースはない。

どうも日本では感染することは罪である、という解釈が出来上がっている。有給休暇をとるときでさえ、ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします、という人は多い。有給休暇など権利なのだから、謝らなくてもいいのに。なんとも日本社会が窮屈な感じがする。

このような発想を壊すには、まず生まれた時点で人は周りに迷惑をかけていることを思い出す必要がある。また、その後生き続けているだけで、周りに迷惑をかけている。植物は二酸化炭素そして水と太陽の光で光合成を行い、栄養素を作れる。しかし、人は植物を食べるか他の動物を食べないと生きていけない。他の命を頂かないと生きられないのだから、年中迷惑かけていることになる。日本の道徳教育や修身教育も人々の思想によい影響を与える部分が多いが、どこか自己責任や努力、礼儀というものを強調しすぎる点があることも否めない。

ルース・ベネディクト菊と刀』(講談社学術文庫、2005年)によると、日本は、人がみているから恥ずかしいということで行動に規律が働くという。一方、欧米人は、神がみているので罪を犯せないと考えるという。それに対して、長野晃子『「恥の文化」という神話』(草思社、2009年)は、日本が恥の文化だけではなく罪の文化もあるから、すぐに「申し訳ない」という謝罪が入ることを指摘している。それは神の存在ではなく、日本人が普段意識していない心の奥底にある倫理観や自責の念からくるもののようだ。

日本は治安がよく、他者への配慮もあり、人に迷惑をかけないように慎重に生きている。ただ、そろそろそのような行儀の良さは、少々忘れてもいいのではないかと思う。生きているだけで、他者や世間に迷惑をかけているのだから、もっと気楽にお互い様で生きていくことでいい。自分を責めることなどなに一つない。そして、日本の文化が世界で一番などということもない。世界のあらゆる文化が尊ばれるべきだし、どちらが優れているかなど順番は存在しない。日本礼賛など不要であり、それぞれの国や文化には役割があり、お互いに影響しあっているのだから。

特別措置法の改正案も出ているが、刑事罰も提案されており、それこそ、「新型コロナ感染=犯罪」のイメージすら作られてきている。世の中にいくつもある感染症の一つでしかないのに。

日本人も真面目でいいところもあるが、その真面目な日本人をやめることも必要である。そうしないと、死者数の比較ではヨーロッパやアメリカのほうが被害は甚大であるが、精神的なダメージに限っていうと、日本のほうがはるかに大きいということになる。実被害がないのに自傷行為で被害を拡大させている様子は、なんとも残念に思う。もっと破天荒に振る舞う日本人をみてみたい。新しい時代は、新しい日本のあり方を示すよい機会なのだから。「コロナになっちゃった!」「それで???」で十分であろう。

日本社会の不寛容さはもはや伝統

大学入試で不適切なマスクの着用が原因で、試験会場のトイレに立てこもった男性が警察官に逮捕された。昨年、飛行機内でマスク着用を拒否して緊急着陸させた男性も逮捕された。日本もどこかの軍事独裁国家と変わらないくらい危険な国のように思えてきた。

マスク着用拒否や不適切な着用で逮捕された人たちを、自業自得だとか、告発すべきだとか、簡単に断罪するが、価値判断を留保する余裕が持てないものだろうか。寛容さのない社会が日本の特徴かもしれないが、世界をみればもっと多様である。日本の中だけの正義論には距離を置きたい。

また、私が違和感を持つことは、事件のあった事実よりも、記事に対する読者の反応で、ほとんどのコメントが事件に対する批判であった。そして、批判的コメントに対して親指が上を向いている「いいね」の意思表示が約9割で、親指が下を向く「同意しない」意思表示が約1割である。9割の人がマスク問題に対して同じ反応をする社会がとても危険ではないかと思う。

その点、茂木健一郎氏がユニークなコメントをしている。別の対応方法があったのではないか、ということ。しかし世の中は、その茂木氏のコメントにも批判的である。マスクを一日中しているからみんな呼吸ができないのではないか。もうそろそろ一呼吸を置いて、マスク問題で価値判断を避けてもよいように思う。今は一つの価値観に猪突猛進している状態で、告発、断罪、学問への冒涜などなぜそう言い切れるのだろうか。寛容さのない社会、多様性や曖昧さを受け入れない社会に面白みはないと思う。そのような意味で茂木氏のコメントは、危うい日本社会の流れに課題設定をしてくれた。

多様性という点では、今のアメリカも非常に注目すべき状況である。有権者の得票数からいくと、半数弱の人はトランプを支持している。たしかに、かなり不思議な大統領であったが、それだけ支持者が多い。日本では、あのようなことは起きないであろう。また、トランプ支持者によるマスク拒否のデモまで起きている。アメリカは民主主義の国家であり、政府によって自由を奪われる必要はない。マスクをしない権利があるという。日本の常識からすると考えられないのであろうが、それがアメリカの多様性であり、イノベーションを起こし続ける活力でもある。

アメリカだけではない。このような政府の動きに対して、フランス国民もおかしいと思えば必ずアクションを起こす。フランスの新聞、La Croix, Opposés au port du masque chez les enfants, des parents saisissent le Conseil d’État, 05/01/2021によると、小学生の子どもを持つ183人の親たちが、子どもが学校でマスクを着用する義務に対して異議を唱えて、国務院という行政訴訟を扱う機関に訴えを起こしている。おかしいことにはおかしいとはっきりと表明する文化が定着している。だからこそ、デモはフランスの文化の一部であるといってもよいであろう。もちろん、暴徒化するという弊害もあるが、あの暴徒は一般市民ではなく、ヨーロッパ全域から集まってくる特殊な集団であり、一般市民が暴力行為をすることはほとんどない。

その点、やはり日本はおとなしい。政府がいうこと、自治体がいうことに反論することがない。夜の街の自粛要請やマスクの着用義務化が憲法違反だなどといった議論はほとんど聞かない。年末年始には札幌に帰省したが、マスクの着用率はほぼ100%といってよい。東京であれば数人マスクをしない人をみかけるが、札幌ではそのような人は皆無といってよい。もともと北海道は中央政府に財政依存している自治体でもあるので、そのような従順さがあるのかもしれない。

しかし、このような従順さは、今のような緊急事態においてはむしろ危険でもある。アメリカやフランスのように多様な考えや意見をぶつけ合うくらいのほうが間違いは起きない。このようなことを多様性があるといってよいと思うが、日本における多様性は、まだまだ道半ばである。

社会や組織が多様であることの最大の利点は、リスクマネジメントである。ある一つの方向へ社会や組織は猛進することなく、ある一つの流れができると、その流れを止めようとする勢力も現れる。異なるベクトルの意見が対立し議論が活性化することによって、バランスの取れた方向に全体のベクトルが軌道修正されるのである。