スペシャリストのすすめ

自分だけの生態学的ニッチで生きる

みえない世界を信じる哲学

多くの人がマスメディアによって煽られ、感染症の恐怖および死の恐怖から逃れられなくなっている。自分の死に対して恐怖を感じ、身近な人の死に対して悲しみを感じるのは自然である。しかし、感染症というたった一つの病気にどうして人々を恐怖に陥れるようなパワーが与えられたのか不思議である。

この力の源泉の一つは、やはりマスメディアであり特定の専門家の発言であろう。その力に対抗するのは至難の業である。インターネットが普及したとはいえ、まだまだ情報収集をマスメディアで行う人は多い。それだけ影響力はあるし、高齢者であればなおのことマスメディアに依存することになる。

それでは、われわれ一市民としてできることは何であろうか。一人ひとりが死の恐怖から解放されることではないだろうか。死の恐怖さえなければ、マスメディアの報道に一喜一憂もしないし動じなくなる。そして、他者の見解も受け入れつつ自分の独自の世界観や哲学を持って生きていくことができる。

たしかに、私たちは葬儀のときに失った人を偲んで悲しくなり涙を流す。二度と会えないと思い、二度と触れることもできないと思うと悲しい。しかし、亡くなった本人が魂として別の次元に移ったと考えられれば、ほどなく悲しみを感じることもなくなる。むしろ遠く離れて住んでいた親が亡くなった場合は、肉体がなくなり魂のレベルになり、地理的な要因を飛び越えて身近に感じ、いつでも対話できるようになるのではないか。

また実利的にもあの世の存在を信じるほうが幸福感を得るにはよいようである。Insa Bechert, Are Religious People Happier than Non-Religious People? ISSP Data Report: Religious Attitudes and Religious Change (2013) によると、宗教的な人と世俗的な人を比較すると、あの世を信じる宗教的な人のほうが幸福感を感じているということである。たしかに永遠の魂を信じていると、あの世に行けば肉体を離れるので、食べる必要も寝る必要もない。トイレに行く必要もないし、仕事に行く必要もないことになる。なんとも安楽な生活が待っているように思えば、そこはかとなく楽しみでもある。そうであるなら、あの世があることを信じることで死の恐怖から解放されるほうが人生は楽になる。

たとえば、臨死体験をした人には個々の点で違う部分もあるが、ある点で共通していることがあるという。中島宏昭『医者だからわかった「三途の川の渡り方」教室』(幻冬舎、2019年)によると、臨死体験をした人のほとんどが、自分が会いたかった人に会ったという。会いたかった人というのは、自分より先に亡くなった人たちで、たいていの場合は自分の親になる。親は亡くなるときは半身不随であったのに、そこでは手足を自由に動かしていたとか、生前の体の不具合は消えていたようだという。そして、会ってともに過ごした場所は、温かい光に包まれ、輝いているが決してまぶしくない光だという。

この医師の体験では、ある70代の患者が酸素吸入をしても動くことができなくなったので、苦しそうな患者の上にまたがり心臓マッサージを続け数分後に患者が自発呼吸に戻った事例がある。その後、患者が落ち着いたときに意識がなかったときのことを聞いてみたら、患者の視界には、お花畑があり、川のせせらぎが聞こえて、どんどん歩いていくとお寺がみえたそうである。そして、三人のお坊さんが自分に背中を向けて座っていて、そのうちの一人が振り返り「これが最後だぞ」といって数珠を投げられたら意識が戻り、中島医師を含めてみんながいたという体験をしている。

エリコ・ロウ『死んだ後には続きがあるのか』(扶桑社、2016年)にも多くの臨死体験の事例が報告されている。

あちらの世界に行ったときに一人の女性が本人を案内してくれた。知らない人であったが、その後、この世に戻ってくることができた。そして、遠く離れて住んでいる母親から一枚の写真が送られてきてみると、それはあの世で出会った女性であった。実は、その知らない女性は、ある事情で本人がその人生で会うことなく、知らないうちに亡くなっていた実の妹だったのである。

一般的に西欧人の場合は三途の川ではなく、トンネルに入っていくという体験をするようであるが、いずれのケースも向こうの世界はよかったという感想がほとんどである。そして、神様のような何か偉大な存在を感じるという。私はみたことがないので、どうもあちらにはすばらしい世界があるようだとしかいえないが、このような哲学が人々に幸福感をもたらすゆるぎない基盤になるのではないだろうか。

結局、恐怖を煽るマスメディアや専門家あるいは効果的な政策を打ち出せない政治家を批判しても解決にならない。批判すればするほど彼ら彼女らは力を得る。抵抗すると相手はますます強くなる。よって、一人ひとりができることは、それを否定することではなく、受け入れつつ泰然としていることではないだろうか。そのためには、前述のようなゆるぎない基盤を獲得する必要があり、それに基づき自分の考えをしっかり持って動じないでいることである。

何とも怪しい哲学だと思う人もいるかもしれない。しかし、人間は自分がみたものだけが実在と思っていると過ちを犯す。医学博士で宮司である葉室頼昭氏は『〈神道〉のこころ』(春秋社、1997年)中で次のようにいう。犬がみている世界と人間がみている世界が異なるのは眼球が違うからだと。今の生物学ではおそらく犬がみている世界は白黒だとされる。一方、人間はカラーにみえる。そうするとどちらが本当なのだろうとなるが、どちらが本当かわからない。しかし、人間は人間中心でなんでも考えるので、人間がカラーにみえたらこの世の中はカラーになってしまう。

しかし、真実は感じる波動が違うだけだ。人間には自分の眼球で感じる波動しかみえないし、犬には犬の眼球で感じる波動しかみえない。ところが波動というのは無限にある。そして、真実がどこにあるのか決めるのは相手ではなく、自分だということ。この世の中、みえないものが真実であり実在である。宇宙はみえないが、人間がみえることはほんのわずかということである。

よって、自分がみえている世界と違う考えや世界観があったとしても否定する必要もない。自分でできることを行い、自分で構築できる世界観を地道に構築し、自分の知らない世界から得られた新事実を徐々に追加して進化していけばよい。今の科学で感知できないこと、説明できないことは無限に存在していることをもう一度思い出し、より寛容に、直観も使いながら、曖昧さにも耐えつつもっと快適に生きていくことが、これからの一市民としての哲学に必要な要素ではないかと思われる。