スペシャリストのすすめ

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共著『なぜ社会人大学院で学ぶのかⅠ』の予約注文

リンクのとおり共著『なぜ社会人大学院で学ぶのかⅠ』の予約注文が開始されました。予約注文が200件に達すると電子書籍ではなく単行本として出版されるということで、「予約注文支援プログラム」といたしました。今考えると「予約注文サポート制度」の方がよかったかと思いますが。いずれにしましても予約注文を通してご支援いただければ幸いです。支援いただいた方のお名前は、執筆者一同お礼の気持ちを込めて、はしがきに掲載させていただきたいと思います。

<予約注文支援プログラム> なぜ社会人大学院で学ぶのか Ⅰ - 人生100年時代の学び直し | アメージング出版の販売サイト

過去の経緯ですが、昨年から「働きながら社会人大学院で学ぶ研究会」というのを立ち上げています。

働きながら社会人大学院で学ぶ研究会 CAMPFIREコミュニティ

この研究会のメンバーと昨年12月に成果物として共著を出版できないか議論いたしました。その後、出版企画、概要の作成、原稿の執筆と順調に進み、約半年程度で出版までこぎつけるという異例の速さで実現したことになります。

私一人であれば最低でも1年は必要だったことですが、やはり10名の執筆者であればあっという間に実現することに自分でも驚いています。またメンバーもみなさん前向きで、とにかく楽しんでいます。たとえ成り行きで実施してしまった企画だったとしても、やって良かったと思っています。

今の時代、慎重に企画を立案し、多くの人の承認をもらいながら物事を進めるより、見切り発車で面白おかしく実行していると、賛同者がついてきてくれるのかもしれません。眉間にしわを寄せて考えているくらいなら、もうやってしまうということでしょうか。

しかも、『なぜ社会人大学院で学ぶのかⅠ』としているくらいですから、Ⅰ、Ⅱ、Ⅲと続ける予定です。そのうち執筆者も集まるだろうという楽観的な目論見で進めています。走りながら考え、とにかく「やってみなはれ!」の精神で、行けるところまで行ってみようという企画。よろしければ研究会に参加いただき、共著者になってくれる方がいれば嬉しいです。お待ちしております。

出版作業でわかる一緒に仕事をしたい人

2冊の共著の編集をしていて気がついたことがあります。それは自分が見えている世界が、他の人も見えているとは限らないということです。共著の形式や内容に一定の統一感は必要になるので事前に執筆要領が手渡されます。すべての著者は同じ要領を確認し、執筆を始めますが、出来上がった原稿はバラバラということがあります。

同じものを読んでも解釈が変わるのか、そもそも要領が頭に入らないのかわかりませんが、編集している側では、出来上がる原稿に相当なバラつきが生じるのは、そういうものだとあきらめるしかありません。それから表記ゆれを直したり、見出しを工夫したりしながら、読者目線の原稿に整えていきます。

執筆者全員が立派な大学を出られ、その後、高度な職業に就かれ、さらに高等教育を受け続けている人たちもいましたが、文章を書くということはまったく別次元の話だということがわかりました。

最近の大学入試は総合型選抜という小論文や面接を課した入試形式が増えているといいます。たしかに会社に入れば、稟議書や報告書など文章を書く機会は多いので、その部分の能力は鍛えておくことに越したことないと痛切に感じます。採点する側の負荷は相当なものでしょうが、大学入試全体が総合型選抜になれば、日本の高等教育の風景もかなり違ったものになるでしょう。

もうすぐで、2冊の編集作業は終了いたしますが、そこから多くの学びや気づきがあれば、執筆者にとって有意義な企画であったことでしょう。そして、少なくとも私には大きな気づきがありました。一緒に共著を出すことによって、その人が見えている世界もわかるし、文章を書く技術力がどの段階にあるのかもわかります。次も一緒に何かを書きたいと思わせる人も見えてくるので、共著の執筆というのは、ある意味で次のステージへのリトマス試験紙だったともいえます。

また、文章というのは、その人の技術がどの水準にあるのか証拠が残るので、気をつけなければならないとも思いました。自分もあちこち証拠を残していることになるので、実は怖いことでもありますね。身を引き締めていかなければと思います。ほどほどにですが、、、

知識やノウハウの面や立体をつくる

長女の大学受験のために読んでいた本で、興味深い記述に接しました。全国個人敏腕塾長会編『地方名門国公立大学合格バイブル』(コスモ21、2022年)によると、点の知識を点で終わらせないことが大切といいます。学んだ点と点をつなげることで線にすることが求められます。そして、その線を面にし、さらには立体にする。

たとえば、「イチゴ」を考えます。イチゴは甘い、で「イチゴ」と「甘い」が線でつながります。イチゴは赤い、で「イチゴ」と「赤い」が、また線でつながります。イチゴは果物で、「イチゴ」と果物が線でつながります。このように知識を線でつなげると、徐々に二次元的な面になってきます。

さらに深い知識で、イチゴは約90%が水分で約10%が糖質、日本で年間20万tの出荷量、糖度は冬季で10.3以上で春季で9.3以上などとなれば、かなり立体的な体系的知識へと変化していきます。

今までは点の知識を大量に蓄積してきましたが、それを線にし、面にし、立体にする技能を軽視してきたそうです。これからはより探求が重視され、総合的な思考能力が問われる時代だということです。

たしかに、そうなのでしょうね。丸暗記の時代は終わり、あるテーマについてどこまで深く考えめぐらせることができるのかが重要に。過去にはある問題で回答が得られなければ、そこで終わりでした。すなわち一つの点がわからなければ、そこから前には進めない。しかし今は、他の点を増やしていけば、いつかわからなかった点もわかるようになるので、落ち込むことはないということかもしれません。世界はいろいろなところでつながっているので、一つの点の不知について気にする必要はないのです。

私も論文を書いていると知識不足で筆が止まることがあります。ある一点で行き詰るということです。そんなとき、しばらく別の周辺テーマの調査を開始します。すなわち周辺分野で他の点を増やしてみる。そうすると、増やした点が行き詰まっていた点につながり線となり、さらに面となって立体を形成することがあります。その結果、論文の序論、本論、結論がきれいに流れるように構成される。不思議なものです。

また、高校数学を勉強しているのですが、数学Bの後半でつまずきました。でもしばらく放置して、数学Ⅱをやってみると、数学Bの公式の意味が理解できるということがありました。わからないこと、知らないことに執着せず、放置しておくことも必要ということを知りました。

何となくとりとめのない話になりましたが、これからの学びはわからないことがあってもいいということ。知らないことがあっても大丈夫ということ。子どもの大人も、追い詰められながら勉強する時代ではないということだと思います。のびのびと好きなことから学び、自分の中に知識やノウハウの面や立体を作ることが大切なのでしょう。

 

日本人にMBA教育が向いていない理由

経営管理修士号、すなわちMBAについて批判的な本はあるもののそれほど多くはありません。そこでめずらしく批判的にMBAを評価している本があったのでご紹介しておきます。ご自身が経営大学院の教員も経験された、遠藤功氏が『結論を言おう、日本人にMBAはいらない』(角川新書、2016年)で、辛辣な次の二点の指摘をみてみましょう。

①    日本企業はMBAの価値を認めていない
②    日本のMBAの質が低すぎる

①は、たしかにそうかもしれません。それは、日本企業の人事制度のおかげで、わが国においてMBA教育の必要性が明確に存在するとはいえない点にあると思います。

たとえば、ビジネススクールで学べる主な科目は、経営戦略、マーケティング、会計、ファイナンス、人的資源管理などがあります。しかし、日本企業であれば、経営戦略は経営企画部、マーケティングは営業部、会計は経理部、ファイナンスは財務部、人的資源管理は人事部などで身につくスキルです。

そして、日本企業の多くは人事異動でこれらの部署を経験する機会を与えてくれます。人によっては一通りすべての部署を経験した、などという人もいるかもしれませ。そのような人にとってはビジネススクールに行く意味が薄れるでしょう。

それでは、なぜ、アメリカではビジネススクールが必要なのか。その理由は私が外資系企業で働いた時に、海外の同僚をみて感じたことに見出せるかもしれません。すなわち、彼らがみなスペシャリストで、自分の専門領域における経験しかできていないという点です。いわゆる、多くの人材が「職人」なわけです。ですから会社の経営全体まで見ることができない。

おもしろいことに、アメリカ系の企業の職場では、各人のデスクがパーテーションで仕切られて、同僚が何をしているのかわからないことが多いようです。日本のようにデスクの島があり、みんなで仲良くという雰囲気がありません。とても象徴的ですが、アメリカでは職人であるために経営管理の知識や技術が不足し、それを補う意味でもMBAの必要性はあるということです。

②に関しては、日本とアメリカの高等教育の違いがあるので、私は当てはまらないと思っています。アメリカは学部教育で教養教育、すなわちリベラルアーツ教育があり、その次の専門職大学院があります。研究大学院もありますが、専門職大学院の伝統があります。

一方、日本では戦前からヨーロッパの高等教育を取り入れ、戦後にアメリカ型の教育制度も取り入れています。よって、ヨーロッパ型の学部教育の上にアメリカ型のプロフェショナル・スクールを乗せたことになります。日本の大学では学部レベルですでに専門教育が始まっておりアメリカとは違います。そして、アメリカ型の専門職大学院と従来型の研究大学院の二本立てになり、明らかに大学院教育に混乱が生じています。

これは文部科学省のミスリードだったと思うのですが、何でもアメリカを見習えばよいというものではありません。経営大学院や法科大学院、教員養成大学院が今一つ成果を出せていない点で結論が出ています。そういう意味ではMBAの質が低すぎるというよりは、アメリカの制度を模倣したために混乱が生じているというのが私の感想です。

社会人大学院に関する共著の執筆者を募集!

今年は専門実務書の共著を出します。編集していると執筆者の個性が強い場合、形式、文体、締め切り期限などすべてがバラバラで難しいです。

出版社の編集部が執筆要領を渡してくれているにもかかわらず、それに準拠していないこともあり、人というものは、自分の見えている世界しか見えないんだ、という当たり前のことをあらためて感じています。よほどバッサリと編集できる人でなければ、とりまとめ役にはならない方がいいと今さら思いました。それでも、勉強にはなるので、軽やかに楽しく進めていこうと思いますが。

また今年、もう一冊の共著である一般書も出版いたします。昨年は単著2冊で、今年は共著2冊ということになります。人生100年時代の学び直しがテーマで、次のような内容が共著者から出てきております。

1)リカレント教育の場としての大学院
2)実効性のある社会人財政支援制度の提言
3)地方国立大学の大学院で学ぶ意義と課題
4)シングルマザー専門職大学院の体験記
5)技術経営(MOT)が広げた将来の可能性

一見、バラバラなようですが、それぞれの個性が出るように編集できたら良いと思っています。

自分自身、日頃から学校や企業は生徒や労働者の個性を揃えたがり、画一的な統制を望むということに対して批判的な考えをもっていますが、いざ自分がまとめ役になると、個性を揃えたくなります。やはり編集あるいは管理が楽だからですね。一定の幅を持たせながら、バランスを取ろうと反省しています。

また、現在も共著者を募集中です。今年が終われば、来年も再来年も同じ企画を継続します。筆力に自信のある方はご検討いただければ幸いです。

出版企画はこちら。

community.camp-fire.jp

国公立大学教員も参加するゆるいコミュニティ

昨年からスタートした、社会人大学院の研究会(コミュニティ)ですが、予想外にも地方国公立大学の教員の方も現時点で2名参加いただくことになりました。メンバーは、リンクの窓口以外からの参加者も含めて30名を超えています。当初、民間企業に勤務し、自分のキャリアを考えて社会人大学院を検討する人たちを想定していましたが、どうもそれだけではないようです。

働きながら社会人大学院で学ぶ研究会 CAMPFIREコミュニティ

これはやってみなければわからないことでしたが、実は教育を受ける側に限らず、提供する側にもかなりの課題を抱えて悩んでいる方がいるということになります。

私自身は、特に課題や悩みがあったわけではなく、とにかく人生の選択肢を増やすことで、各人が「自由」を手に入れることができればそれで良いと思ってはじめました。一方で、研究会に参加してくださった新しいメンバーの方々のバックグランドの多様性には、とても興味深く感じています。自分も視野が広がってくるし、知らない世界のことについて相談できる相手も増えたということで、すでに、コミュニティをつくって正解だったといえます。

2024年は、まず最初の共著を出版いたします。出版企画などの詳細は、最初に貼ってあるリンクの「アクティビティ」に掲載しています。仮題『社会人大学院で学ぶ1 - 研究の扉としての修士課程』とでもしておきましょう。そして、2025年には第2弾、2026年には第3弾、ということで展開していきます。一冊目の編著者は自分でやりますが、それ以降は別の方に担っていただき、バトンリレーのように継続していこうと思います。

無理に組織化することはしません。できる人がやる、というくらいの、ゆるくて軽いコミュニティです。組織化すると主導権争いや、派閥争いが生じたりして腐敗することもあること。また、いつでも中止や保留にできる体制にしておく方が、参加者も気楽に貢献できるということで、軽やかなコミュニティにします。

これからの時代は、ゆるやかな横につながるコミュニティというのが各人の個性が活きて良いと思います。もちろん、組織化されたコミュニティも良いと思いますが、企業でも大学でも、どうも時代の変化に対応できていところが多いことをみると、どうも時代が変わっているように感じます。せっかく、世間で追い風が吹いても、それに乗ることができない。コロナ禍でさえ、追い風にできたのに、逆風となって、後退してしまったところが多い。そう考えると、明らかに時代は変わりました。風のように軽やかに生きていく方が、成功が向こうからやって来るような時代の流れになっていると思います。

見えない力に導かれ共著の出版へ

先日「働きながら社会人大学院で学ぶ」研究会のオンライン会議をしました。思いつきでつくったコミュニティなのですが、8名の方が会議に参加してくだり、2024年に共著を出版する可能性が出てきました。参加者のバックグラウンドは、北は北海道から、南は九州まで多彩になっています。

この企画は、実は事前に周到な準備などしていません。走りながら考えて展開していった結果、出版企画や執筆要領も下記のとおり完成しました。不思議ですが、いろいろな人と対話しているうちにここまで来ました。ご興味のある方、共著者になっていただけそうな方を募集していますので、ぜひご検討ください。

【出版企画】

仮題『社会人大学院で学ぶ』共著の出版企画 CAMPFIREコミュニティ

【執筆要領】

仮題『社会人大学院で学ぶ』共著の執筆要領 CAMPFIREコミュニティ

このようにじっくり事業計画を考えて進めているわけではないのですが、なぜか成り行きでここまで進んでいます。自分の中に強力なモチベーションがあるわけではないのですが、何か見えない力にやらされているような感じです。

特に自分の実績になるわけでもなく、何か大儲けできるわけでもありません。強いて言うなら、自分にはない専門知を持っているメンバーと知り合いになれたことくらいがメリットでしょうか。おそらく今後、自分の仕事や生活に、有形無形の便益をもたらす可能性はあることでしょう。

それにしても組織力を使ってもできないと思うことも、ヨコのつながりでできてしまうことは意外にあるのかもしれないと思いました。自分の会社内で企画しても通らないとか、人材がいないということも、ヨコのネットワークの中でできることは意外にあるのかもしれません。来年の本の出来上がりが今から楽しみでもあります。