職人的生き方の時代

自分だけの生態学的ニッチで生きる

自動思考を捨てて腹から直観を得る

仕事や勉強が手につかないことはありますね。私が今一番困っていることは、自動思考が止まらないことです。自分の過去を悔いたり、思い返すということはあまりありませんが、将来の展開を考え、不安や恐怖で堂々めぐりすることがあります。このループから抜けることが至上命題ですが、そう簡単ではありません。

最近、中川八洋『正統哲学 異端思想』(徳間書店、1996年)という本を読みましたが、難しくて今の自分には合わないと思い、いったん読み進めるのを休止しました。しかし、その内容は示唆に富んでいます。

中川氏は近代政治哲学などを専門にした研究者ですが、理性を絶対視する近代哲学の祖であるデカルトを批判します。『方法序説』で有名なデカルト哲学を、無益にして有害な思想と断罪します。学生の頃に読んでわかった気になった自分ですが、理性や思考を絶対視する点、たしかに今の私であれば賛同しかねます。

そして、スピリチュアルな指導者であるエックハルト・トールの『ニュー・アース』(サンマーク出版、2008年)でも同じようにデカルト批判が出てきました。「われ思う、ゆえにあれ在り」という有名な言葉は、思考と存在を同一視しているが、思考に気づいた意識は、その思考とは別次元の意識であると説明しています。

何だか難しい話になりましたが、自分の本質は思考の外にあるということだと思います。自分の外からの気づきや直観、インスピレーションなどは自分の思考がもたらすものではなく、自分の外側の次元のもう1人の自分が提供しているものというような意味でしょう。

英語で直観のことを"gut feeling"といいますが、gutは腹とか腸という意味で、直観は腹のあたりから来ることを人は知っているからそのような表現になったのではないでしょうか。日本語も腹落ちするとか、腑に落ちるなどと表現しますね。

ですから思考はむしろ邪魔で、本当に幸せになりたいのであれば、腹に問いかけろということかもしれません。今は私が取り組んでいることは、思考から答えをみつけることではなく、腹に問いかけ答えを得ることになります。これが並大抵のことではなく、難なくできるようになれば、おそらく幸せの感覚に包まれるのだと思います。禅僧のように継続してその境地にたどり着こうと思います。