職人的生き方の時代

自分だけの生態学的ニッチで生きる

表現の自由を奪うポリティカル・コレクトネス

清水晶子ほか『ポリティカル・コレクトネスからどこへ』(有斐閣、2022年)を読んでみましたが、結局、ポリティカル・コレクトネス(以下「ポリコレ」)やキャンセル・カルチャーについてほとんど理解できませんでした。この分野を研究している人たちは、答えのない問題を必死に解いているような状況ではないかという感想を私自身は持ちました。

様々な表現や発言に「社会的な望ましさ」を求めて解を探すわけですが、そんなものは存在しない、と言われたらそれまでです。いろいろ理屈を付けて論理的に議論を展開しているのはわかるのですが、かなり虚しさを感じます。

そもそも社会的な望ましさや、正しさでも何でもいいですが、時と場所が変われば、その望ましさも正しさも変わります。少なくともこの地球上に世界標準など存在しないので、探すだけ時間の無駄なようにも思います。正しさを求め、それに合致していない表現や発言を誤りだと決めつけることの方が危険ではないかとさえ思えました。

仏教の国、キリスト教の国、イスラーム教の国、ヒンドゥー教の国、それぞれ正しさがあり、単に違うだけです。望ましさや正しさを求めるなら、違いを認識し受け入れる方がはるかに建設的で楽ではないかと思いました。また、古代・中世・近世・現代で正しさなど大きく変化してきたと思います。変幻自在といっていいでしょう。

本書を執筆された執筆者は、構造的問題だとか、社会モデルだ個人モデルだなどと、いろいろな概念を持ち出して、ポリコレを説明しようとします。また、社会学の基本を学んでから議論に参加するべき、などと上から目線の発言もみられます。

結局、私たちは自分が見えている限られた世界をもとにしか語れないわけで、この本の中で展開される議論がどこまで現実社会を豊かにしてくれるか疑問に感じたわけです。あまりネガティブな感想ばかりでもいけませんが、それだけ学問として構築するのは困難なテーマなのでしょう。だからこそ、そこに挑戦する執筆者の努力には敬意を表するわけですが。

いずれにしろ私が警戒しなければならないと思うポイントは、ポリコレやキャンセル・カルチャーが表現の自由を奪うための道具になりかねないということです。そちらの方が、社会的な望ましさ云々以上に危険な香りがいたします。