職人的生き方の時代

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大学は日本語を捨ててはいけない

日本の大学なのに英語で卒業できる大学が増えているようですね。わざわざ日本の高等教育を受けるために海外から来日して英語で日本のことを学ぶ留学生がいるのでしょうか。多様性を維持して日本人学生のための環境作りでしょうか。

長い歴史をかけて日本語で高等教育を受けることができる体制が整ったにもかかわらず、日本語を捨てることには大いに疑問があります。母語を通してこそ深い考察ができるのに、なぜ英語なのか。

明治時代の帝国大学では、外国人教員を雇い授業が行われていました。天野郁夫『帝国大学』(中公新書、2017年)によると、東京大学では、主としてイギリス人・アメリカ人が英語で法・理・文の三分野の学問を教え、医学部ではドイツ人教師がドイツ語で医学・薬学を教えていたそうです。

他省庁立の学校でいえば、司法省法学校はフランス人がフランス法を、工部大学校はイギリス人が工学を、札幌農学校アメリカ人が農学を、東京農林学校ではドイツ人が農学をというように、どこの国のどの学問が日本にとって望ましいのかの検証はなく、取り急ぎ高等教育を輸入していたことになります。

それを長い年月をかけて日本人が教員になり、日本語で教授する体制を整えてきたわけです。その労力たるや想像を絶するものがあるでしょう。外国語の文献はことごとく日本語に翻訳され、専門用語も適切な日本語が選択されて今があるのですね。その後、日本人による日本語の文献も出版されるようになり、論文も日本語で読める環境が整って今日があります。

ところが、そのような先人の苦労も省みぬこともなく、世界語は英語ということで、英語のみで修了できる高等教育プログラムが増えてきているわけです。そのようなことが主流にならないとは思いますが、危機感を感じます。気の毒なのは、その宣伝広告に惑わされて入学してしまう学生です。社会に出て実力を発揮できるのでしょうか。

また学問分野によっては、英語で論文を出版するのが一般的になりつつあります。私の専門の法学分野は、まだ圧倒的に日本語ですが、情報学分野などは英語が主流ではないでしょうか。英語で書かれている論文の読者数が多いのはわかりますが、日本国内の発展を考えると、優れた日本語論文が増える方が望ましいのではないでしょうか。