職人的生き方の時代

自分だけの生態学的ニッチで生きる

小説家の書いた日本語論からの気づき

水村美苗日本語が亡びるとき』(筑摩書房、2008年)を読み終えました。春休み頃からページをめくっていたので、4カ月以上かかったことになります。小説家による日本語論ですが、ご自身の物語も含めて語られているので、はやく「結論は?」と問いたくなる内容でした。要点さえ述べれば、半分の分量で語れるのではと思いたくなりました。

これはもう職業病としかいいようがないと思います。学生の頃であれば、夏目漱石森鴎外も読みました。スタンダールバルザックロマン・ロランヘルマン・ヘッセも。しかし、今はもう無理なのでしょう。「それで結論は?」となります。

結局、日本語は亡びるのか? という問いに対しては、亡びる可能性は十分にあるということです。四方八方を海に囲まれ、比較的幸運な地理的ポジションにある日本において、日本語は当然のものとして存続してきました。日本語を守ろう、などといわなくても、比較的楽に伝統を維持できたのでしょう。しかし、今後もそのような幸運な立ち位置を維持できるのかは水村氏も確信はないということのようです。

文語文は、おそらく消えてなくなる可能性はあるのでしょう。文語が消滅しても、現代人で困る人はいないと思います。しかし、その文語文すら守れなくて、日本語を守り切ることができるのかと問われれば、たしかに怪しいのかもしれません。

すなわち油断していると、科学技術の進展に押し流され、日本語もきれいに一掃されてしまうかもしれない。すでに一部の大学では日本語を捨てて、英語だけで学位を取れるコースも存在しています。そこの卒業生が社会で活躍できるのか、日本の発展に貢献できるのかは未知数にもかかわらず。

その点の詳細は別の機会に述べるとして、今回、本書読了後の驚きは、日本語が消滅するかもしれないことよりも、小説家の文章が読めなくなってしまった自分のことの方にあります。暑さのせいで脳が溶けたのではありません。少なくとも自分の左脳はビジネス専用の脳に作り替えられたということ。あるいは、小説を読む時は右脳を使っているのでしょうか。そんなことに少々衝撃を受けたのでした。