スペシャリストのすすめ

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研究の世界に「選択と集中」は必要か

日本の研究力の低下に関する記事をよく目にするようになった。天野郁夫『国立大学・法人化の行方』(東信堂、2008年)によると、国立大学については、法人化後に外部資金獲得の涙ぐましい努力や、経費節減のための人員配置の効率化、職員の企画力や業務遂行能力の向上、あるいは意識改革の必要性などが現実として浮かび上がった。そして、国立大学法人化後に組織が疲弊して、研究力そのものが低下しているのではないかと推察される。

また、文部科学省は、いわゆる選択と集中で、地方の大学よりも都市部の総合大学に重点的に資金を配分して、もともと経営資源の乏しかった地方大学の研究力を削いでいる結果になることが読み取れる。結局、国立大学の財政的な自立を促す政策が、大学の研究力の低下を招いている一つの要因でもある。日本全体の研究力の向上は一部の総合大学のみでは達成できることではなく、地方の大学も含めた総力戦でなければ難しいのではないか。

それではなぜ、選択と集中を基準に資源配分すると研究力が低下するのであろうか。研究とビジネスを同列に考えている限り、その答えはみえないのかもしれない。そもそも研究の場合、すぐに役立つ応用的な研究もあれば、将来役に立つかもしれない基礎的な研究もある。どちらも研究してバランスを取らないと良い成果は出せないものである。しかし、選択と集中を基準にすると、短期的に成果を出せる応用研究にばかり資金が偏ることになる。

この点、酒井敏『野蛮な大学論』(光文社新書、2021年)はうまく表現している。将来成功しそうな役立つ研究に対して選択的に資金を集中させるのは、「当たり馬券だけ買いたい」という表現と同じでナンセンスな手法だと。未来のことは誰にも予測できない。何が起こるかわからない未来に備えるには、いろいろなことを手広くやっておくしかないと。

そのようなことをいうと、そんな失敗ばかりする効率の悪い研究につき合っていられるかと怒り出す人たちがいる。しかし、それを恐れて世の中を騙し続けていると、結局は学術界全体が自分で自分のクビを締めることになる。選択と集中で効率よく役に立つ結果を出し続けることなどおよそ不可能だからだ。

よって、研究者は「頭のいい人」を演じるのは止めて、世間には「野蛮で頭の悪い命知らずな連中がいろんなことをやっている」と思ってもらうのがよいとする。この「野蛮」という視点が酒井氏の書籍のタイトルになっているわけだが、効率よく最小のインプットで最大のアウトプットを出そうというのはビジネスの世界で通用するとしても、大学の研究の世界で結果を出せるかどうかはわからないということである。

そもそも、ビジネスの世界ですら選択と集中が正しい解であるのかはわからない。一見、非効率な分散された事業のポートフォリオが、ある分野の業績不振を他の分野で補うことにより、企業グループ全体を救うということもある。過度に選択と集中を実行していなことが功を奏することがあるということ。選択と集中という戦略があるゆる場面で正しいのか、ということは、特に大学の研究分野においては疑ってもよいと思う。