職人的生き方の時代

自分だけの生態学的ニッチで生きる

オンライン教育に過度の期待はできない

オンライン教育というものをどのように考えていくべきか。もろ手を挙げて賛成とはいかないかもしれない。自分自身は、大学院の博士課程をほぼオンラインで受講している。約1年3か月になるが、大学院に行った回数は2回である。そして、博士課程の場合は、指導教授による論文指導がメインになるので、オンライン授業というのは馴染むのかもしれない。しかし、小学生や中学生、あるいは高校生や大学生にオンライン授業だけで済ませるというのは問題があるかもしれない。

たとえば、堤未果『デジタル・ファシズム』(NHK出版新書、2021年)によると、アメリカのシリコンバレーの億万長者たちが資金提供してきたオンライン授業による個別学習プログラムは10年かけて改良を重ねたにもかかわらず、いまだに学力向上という成果を出していないという。そして、その学習プログラムの成果を検証した研究者は、個別指導以上に重要な教師の役割とは、単にパソコン上で最適な問題を解くよりも、人としてのつながりや、生徒を褒め、励まし、上達をともに喜ぶことなのだ、としている。

たしかに、日本においても大学受験のための予備校で、オンライン授業やビデオ受講できるものも存在するが、一方的に授業を受講するだけで、対話がなかったり雑談がなかったりと、生徒がすぐに睡魔に襲われ、集中力が継続しないものも多いのではないだろうか。本来、教育とは教師と生徒の共同作業のようなもので、微妙なニュアンスの指示や示唆も含めて、生のやり取りが必要なはずである。

そもそも、資金提供した億万長者の子どもたちには、そのようなオンラインの個別学習プログラムなどさせていないであろうし、自分の子どもには一対一の家庭教師なのだと思う。ところが、自分の子ども以外には、効率性を重視した、デジタル化した教育を提供しようということになる。

ここで思うことは、教育をビジネスと考えれば、投資に対するリターンという発想で、教師の数を削減し、校舎も所有せず、遠隔でも生徒を集めることができ、良質な授業を多くの生徒に均質に提供できるオンライン教育などが効率的という結論になるのかもしれない。しかし、本当にそうであろうか。パソコンの画面に表示される教師の解説を聞き、そこで問題を解くことで、学力が向上するであろうか。私は集団の中の雑談や対話、議論の中にこそ多くの学びがあると思う。先生の強烈な個性や生徒間の交流にこそ、人生を力強く生きていくための学びの要素が詰まっているように思う。

人間の脳の働きは、デジタルだけでは活性化しない。教育をビジネスと考えている限りこのような視点は持てないのかもしれない。教育にはもっと公的な資金も必要で、もっと遊びの要素も取り込まなければならない。集中と選択などというビジネスで使う用語を教育に持ち込んで、効率優先を追及していると大きな過ちを犯すことになると思う。大いに遠回りをしてゴールに向かうのが教育ではないだろうか。