職人的生き方の時代

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ワクチンを打たない少数派を守る憲法

日本においてワクチンの強制接種やワクチン・パスポートの導入は不可能だと思われる。日本国憲法のもとに、1948年予防接種法が制定されているが、当時は予防接種法3条において予防接種が義務規定になっており、1項には「何人も、この法律に定める予防接種を受けなければならない」と規定されていた。

しかし、予防接種強制制度のものとで実施された予防接種で、多くの被害者が出たことに伴い、複数の訴訟が提起され社会問題化するに至り、1976年の法改正によって、予防接種受けなかったことによる罰則規定は削除された。さらに1994年の改正では、義務規定は努力義務規定へと修正されて現在に至っている。

ワクチン強制接種やワクチン・パスポートの導入を正当化する場合、昔の予防接種法のように義務規定に法改定しなければならないが、竹中勲「予防接種強制制度の合憲性と予防接種健康被害に対する憲法上の救済権」同志社法学会60巻5号(2008年)によると、旧予防接種法のもとでの予防接種強制制度は憲法13条に違反し、違憲であるとする。すなわち、予防接種を受けるか受けないかを含めて、あらゆる人生や生活に関する選択については自分に決定権があるということであり、その根拠となる条文が次のとおりになる。自分のことは自分で決定するというあたりまえのことである。

憲法13条

「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」

一方で、集団免疫を獲得するためにワクチンが必要なのだから、公共の福祉のためにも正当化される、あるいは予防接種を受けないことは他者を加害することになるという論法もあるかもしれないが、かなり厳格な司法審査を経なければ、そのようなことは正当化できないであろう。そして、医学の専門家の間でもそこまで過激な主張は出てきていない。

以上のとおりワクチン接種をしたくない人々は、確実に憲法で守られている。しかも、少数派となっているワクチンを接種しないことを選択した人たちは、この憲法を今こそ活用すべきときかもしれない。なぜなら偶然手にした馬渕睦夫『ディープステート』(ワック、2021年)に、日本国憲法はドイツのワイマール憲法をそのまま取り込んでいるという指摘がある。しかも、少数派であったユダヤ人を保護するために多くの人権保障が詳細に規定されている。

たしかに、ワイマール憲法を起草したのは、ユダヤ商人の子として生まれた法学者であり、基本的人権の規定は緻密である。たとえば、次の条文を読んでも、たしかに日本国憲法に取り込まれた形跡はある。

憲法14条 

「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」

ワイマール憲法109条

「①すべてドイツ人は、法律の前に平等である。

②男性と女性は、原則として同一の公民的権利及び義務を有する。

③出生又は門地による公法上の特権及び不利益取扱いは、廃止されるものとする。」

ということは、少数派を厚く保護するために規定された憲法は、時代を超えて今のような状況にこそ活用されるべきということになる。立法当時は、そのようなことを想定していなかっただろうが、少数派に利のある法律である。

自分が専門の保険約款解釈でも、約款を作成した当事者、そして約款に基づき契約した当事者が、まったく想定していなかった事象に対して、驚くような理屈で約款が機能することがある。そんなつもりではなかったのに意外な解釈ができ、想定外の結果をもたらす場合である。そういう視点で考えると、ワイマール憲法を範とした日本国憲法も、当初は想定していなかった形で、現代の少数派の人々を守る可能性はあることになる。いずれにしても、法律も人間が起草するものであり、想定外のことはどんどん生じる。だから結論は簡単に出ないし、人々は揺さぶられる。揺さぶられながらも人生を楽しむことができれば、次の時代を楽しく知恵が身につくのではないだろうか。