職人的生き方の時代

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「恐ろしいコロナ」vs. 「かわいいコロナ」

コロナに関する各種対応が憲法基本的人権の観点から議論されていないな、と思っていたが、やっと書籍が出始めている。その一冊の大林啓吾編『感染症憲法』(青林書院、2021年)を読むと、この分野は議論の深みと広がりが不足しており、憲法9条のような活発な議論の蓄積がなかったのだということに気づかされる。それでも、このように憲法学者が声を上げはじめているのは興味深い。そして、このような議論が表に出るには、それなりの時間が必要であったこともわかった。

この書籍の中で紹介されている、アメリカのエボラ出血熱に関する看護師の事例は示唆に富んでいる。非常に複雑で繊細な議論が必要であり、「PCR検査をして隔離」などという単純な話ではないことは理解できる。以下がその事例になる。

国境なき医師団の看護師としてシエラレオネに赴き、エボラ患者の治療に従事していたアメリカ人女性が、2014年10月に帰国し、ニュージャージー州の国際空港に到着した。するとアメリカ疾病対策予防センター(CDC)の検閲事務所に通され、いくつかの質問と体温検査を受けた。異常は見られなかったが、その後、再体温検査で熱があることを告げられ、6時間も空港に足止めされ、病院に送られた。しかし、エボラ検査の結果は陰性だった。

この女性は、症状が出なければエボラは感染しないことを知っており、今回の検疫措置は厳しすぎると批判する記事がニューヨーク・タイムズ紙に掲載された。この批判の翌日、ニュージャージー州知事は、「政府の仕事は市民の安全と健康を守ることである。それ以外の考えはもっていない」と反論した。

結局、80時間も拘束されたあとで彼女は解放されメイン州の自宅に戻った。しかし、今度はメイン州の知事に3週間のあいだ自宅で検疫期間を過ごすように命じた。知事は、他人の3フィート以内(約1メートル弱)に入ること、仕事に復帰すること、公共の場所で人の集まる所へ行くことを禁じた。しかし彼女は医学的に検疫する必要がないということを知っているので自由に行動した。

そして、その行動が住民の間に不安を引き起こし、その結果、メイン州は州裁判所に彼女に検疫命令を出すように請願を出している。

しかし、州裁判所は検疫が不要であるとして次のような判断をした。まず、州が被告の移動の自由を制限するためには「他者を感染の危険から守るために必要」であることの明確な証拠を示す義務があるとする。しかし、裁判所に提出された証拠をみるかぎり、被告にはエボラに感染していることを示すいかなる徴候も出ておらず、よって、感染の危険がないといえる。「エボラに関して、われわれの国はいたるところで、誤解や誤情報、不適切な科学や情報がまき散らされて」おり「人々は恐怖心から行動しているが、この行動はまったく理性的とはいえない」としている。

この事例ではメイン州の住民のそこはかとない不安が州政府を突き動かした。しかし、多くの住民の認識は錯覚であった。あるいは、何となくの印象であった。

また、わが国におけるメディアでの知識人や専門家の発言があまりにも軽々しいということは、この事例からも明らかなようである。人の自由を奪うことの重大さを認識しているのであれば、あのような発言は出てこない。アメリカのフロリダ州の人々の意見には、そんなに怖いのであれば、あなたが家に閉じこもっていればよいだけであり、あなたは私の自由を奪う権利はない、という趣旨の議論が聞かれる。そのとおりかもしれない。

私は、本当に「恐ろしいコロナ」は存在するのかについても懐疑的にならざるを得ない。「かわいいコロナ」が存在しているだけではないかというもの。インドも大変なことになっているようにみえるが、インドの地方に住んでいる人からは、普段と変わりないという報告もある。日本も同じようなもので、私の周りでコロナで死亡した人はいない。それ以外の原因で亡くなっている人はいる。「恐ろしいコロナ」vs. 「かわいいコロナ」。誰かこの疑問に答えを出せる人はいるのであろうか。