本棚の奥から1992年の「大学院要覧」がでてきた。懐かしい先生の名前もあり、講義内容も説明されており当時の学問の流行も感じられた。そして、当時の先生方の業績はどのようなものだったのかと思い、国立国会図書館のウェブサイトの検索機能で調べてみて気が付いたことは、意外にも論文数が少ないということであった。
当時、〇〇の分野では権威であるとか、この世界の重鎮である、といわれていた人でも著作物の数で10本程度の人も多い。昔はどのように大学教員は評価されていたのであろうか。今であれば論文数や査読論文数、学会報告数、あるいは賞の受賞回数などいろいろな尺度で評価され、かなりの実績がオープンになっているので隠しようがない。
当時の授業も非常にゆるかった部分もある。日によっては喫茶店で世間話をして終わりということもあったし、毎回ではないが薬膳カレーを食べに行こうといってカレーを食べて終わりという授業もあった。大学院生なのだからしっかり自分で勉強してください、ということかもしれないが、そのようなゆとりのある先生は、意外に自分の業績には厳しく、常に論文を出し続けている人も多かったと記憶する。
今考えると1990年代の前半でそのような状況なのだから、1980年代や70年代はどのような雰囲気だったのだろう。今はいろいろな意味で情報開示が進み、授業の質や業績の評価も厳しく、大学教授などはさらし者になっているといってよいのではないだろうか。少なくとも普通の企業の従業員であれば、実績など人事部のみが知ることができて、部外者はよくわからない。そのような意味で、まだまだ企業に所属する従業員のほうがぬるいといえる。
このような厳しい透明性の確保された評価にさらされる大学教授であるが、学問の質や教育の生産性は向上したのであろうか。私は変わっていないか低下しているのではないかと危惧する。論文の数はたしかに増えているが、本当に熟慮され深淵な考察の中から出てきた論文は少ない可能性がある。昔は400字詰め原稿用紙に手書きで書いていたので、脳も活性化しスピードを重視していないので、それなりに深い議論や新しいキラリと光る着想の論文が多かったのではないだろうか。一方、今はスピード重視で数も増やさなければならない、ということで単なる解説のようなものも多い。また、学問が専門特化しすぎてしまい、全体を俯瞰する能力は明らかに低下してしまった。よって、収入源確保のための教科書を出版するというのはあるとしても、壮大な体系書を書ける教授というのは多くない。
最近は授業でパワーポイントも使うようになり、学生が飽きないような知恵も出しているという。お客様である学生に授業で満足していただくためには、いろいろ創意工夫が必要ということである。
しかし、自分の学生としての過去を振り返っても、授業が面白いかどうかよりも、どうもその先生が面白いかどうかで教育というものを評価していたように思う。大学教授の全人格的な魅力とか学問に対する情熱や深い思想に魅力を感じていたのではないか。
もう亡くなっているが、喜多了祐氏という商法学の権威が非常勤として講義をされていた。記憶するに「私の学説は多数説でも少数説でもありません。単独学説です」ということをおっしゃっていたと思う。だれも説いていないことを主張し提言しているという意味では、今でいうニッチ分野を走っていた研究者といえるであろう。
当時、大学教員の身分としては最後の年ということで、ほかの大学ですでに教員をされていた人も聴講にきていた。クラスの人数は3名しかいなかったので、もう一人加わると4名になり、明らかに外部の人であることはわかった。すでにどこかの大学の教授であるという。しかし、そのような人が聴講したくなるほどの人間的魅力をオーラとして出していたのであろう。
自分も講義の内容はすべてわからなかったと思うが、そこはかとなく先生の魅力には惹かれていたと思うし、その後、著作を買って拝読もさせてもらった。しかし、私のレベルで理解できるような代物ではなかった。よって、意外な答えは、授業など理解できようが、できまいが関係ないということ。パワーポイントを使ってわかりやすくなどという配慮もいらない。その教授の人間的な奥深さや突飛さ、あるいは異色な才能、異彩を放つ説、型破りな発言など、そのようなことのほうがよほど学生を刺激するには重要だということではないだろうか。
最初の話題に戻り、それでは大学教授は何をもって評価されていたのであろうか。おそらく、所属する学会での発言や数少ないが鋭い論文、あるいは所属するコミュニティにおける絶対的な評価や評判というものがあったのではないか。「あの人のいうことなら間違いない」というような動かしようのない評価というものがあったのかもしれない。
今は教育の世界には競争原理が導入され、常に追い詰められた状態での教育と研究である。しかし、教育や研究はビジネスと違うので、100年後、200年後、あるいは1,000年後を見据えて考えてもらう必要がある。今年は株主に増配を、当期純利益は〇〇億円、中期事業計画で新規事業を〇本打ち出す、とかそのようなことではない。やはり人を育て、次世代の礎となる研究を積み重ね、何十年、何百年と社会を動かし変革するような教育を持続してもらいたいと思う。