スペシャリストのすすめ

自分だけの生態学的ニッチで生きる

価値判断を留保する余裕を持つ

自分の知らない世界や自分の価値観と異なる考えに直面したとき、自らの価値判断を留保することで将来の可能性を広げることができる。たとえば、卑近な例をあげると、ウイルスに対するマスクの効果について価値判断をせず、自分の頭の中に価値判断を留保する場所を作り、自分の考えを放り込んでおく。そうすることで将来、より正確な情報や研究成果、学説、証拠がでてきたときに、あらためて判断する機会を得ることができる。

筆者自身マスクの効果は実際の使用場面において、マスクの着け外しを行う、ウイルスがすり抜ける、隙間がある、飛沫も二メートルしか飛ばないなどの点で、それほど実効性があるとは思っていないため使用は最小限にしている。また、ホリスティック医学の重鎮である帯津良一医師がある雑誌でマスクの弊害を指摘する。すなわち、マスクをすると呼吸が浅く短くなり、交感神経が優位になることで、緊張モードになり、ちょっとしたことでイライラしたり、怒りやすくなったりするので、免疫機能に障害が出るという。

一方、マスクをしていないと恐怖心を感じている人もいるので、会議室での打ち合わせやスーパーでの買い物のときに、形式的に短時間だけマスクをしている。一方、通勤電車で車両は空いている場合はできるだけマスクをせずに静かに乗っている。中には批判的に自分のことをみている人がいるかもしれないが、批判するという心的態度は価値判断になるであろう。それでも、自分は日本国民であることに感謝しながら平然としている。

わが国の憲法12条、13条は次の通り国民の権利と義務を規定している。

 

憲法12条

「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」

 

憲法13条

「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」

 

このように日本国民は自由を保障されている。もちろん、公共の福祉に反しない限り、あるいは刑法や指定感染症法等が適用されない限り、という条件はつく。さらに現代のネット社会においては、より人格権やプライバシー権を侵害しない配慮も必要になる。

日本の憲法がこれほどわれわれに自由を保障してくれているのは、先人の過去の苦い経験があるからである。多くの苦しみや悲しみの上に築かれた偉大な法律である。戦争中は常に憲兵に監視され、簡単に逮捕され、拷問を受けたり、自白を強要されたりしたこともあった。表現の自由、集会の自由、学問の自由、あるいは人身の自由、すなわち行動の自由はかなり制限され、本当に生きた心地がせずに、日々の生活を送っていた人が多かったであろう。そのように考えると、今のヨーロッパの一部の国に比べて、コロナ禍でも自由を謳歌できる日本人は恵まれている。

さらに、憲法の制定経緯とは関係ないが、感染症においてハンセン病(らい病)が伝染力の強い病ということで患者を強制的に隔離していた時代もある。しかも驚くことに、らい予防法が廃止されたのは1996年と意外に最近である。1990年代前半まで、日本政府はハンセン病が隔離政策の必要な病気と考えていたのである。

このように人間や政府は簡単に過ちを犯す。よって、あなたは「マスクをすべきだ」という考えも「マスクすべきではない」という考えも、どちらも未来からみれば正しくない可能性があるということ頭の片隅に置いておく必要がある。

今の限られた情報や科学にもとづき、われわれが勝手に思っているだけの考えを人に押し付けるリスクは回避する。もしかしたら、未来においては新型コロナウイルスに対してマスクをすべきではなかったという根拠が出てくるかもしれない。手洗いうがいもすべきではないという論理も出てくるかもしれない。人間は適度にウイルスを取り込んで生きていかないと、次々襲ってくる新しい感染症に対処する免疫システムが確立されないから、という考えが通説になる時代があるかもしれないからである。そんなバカなことがあるか、と思うかもしれないが、歴史を振り返ってみれば決して奇想天外なことということもない。

結局、時代を超えて正しい説や間違っている説などというものはないということ。正しいと思っていたことが誤りであり、間違いと思っていたことが正しいということは、いくらでもあるということをあらためて確認しておく時期かもしれない。