職人的生き方の時代

自分だけの生態学的ニッチで生きる

アウトプットを前提にインプット

効果的なインプットを実行したい場合は、アウトプットが前提のほうがよいと思われる。たとえば、本を書く、論文を書く、ブログを書くという前提でインプットすると、漫然と本を読み漁るよりも効率的である。

筆者の場合、論文を書く前提で書籍を読むと、引用できる個所はないか、新しい着想が得られないか、異なる論理の展開がないかなどを意識して探すことになるので、一冊の書籍から得られる情報がより多く明確になるように思う。とくに論文の場合、引用するページを記載しなければならないので、下線を引いたり付箋をつけたりし、あとでその個所に戻ることを前提に読むことになり、そうすると、そのページの前後の文脈も記憶に残るし、なぜそこに下線を引いて付箋をつけたか脳に浸透しているようである。

そして、実際にアウトプットしてみるといろいろな気づきが出てくる。たとえば、読んだ文献を本当に理解していたのか、執筆者が意図していたことは本当に自分の理解していた通りなのか検証し振り返ることになるので、アウトプットしているときは、単にインプットしたときと異なる解釈が出てくることもある。すなわち、同じ人間が同じ文章を読んで解釈しているにもかかわらず、読んでいるときと引用しているときでは異なる解釈が出てくるのである。奇妙であるが実際に引用しようとするときのほうが、解釈に深みがあり多角的な分析になっていることが多い。それは、様々な文献をつなぎ合わせて一つの段落を作り上げようとすると、それぞれの文章に整合性が必要になるし、段落全体でストーリーに矛盾があってはいけないので規範意識が働くからであろう。このように、効果的なインプットを達成したければ、アウトプット前提でインプットしたほうがよいのは確かなようである。

また、アウトプットの効果も見逃せない。論文を雑誌に掲載するときは、校正刷りのゲラが出来上がると、ワードのままだと気づかなかった誤字脱字を含めた日本語誤りに気づく。不思議であるが、何度もワード原稿をチェックして気づかなかった誤りがゲラになった途端に、誤りがみえてくるのである。ブログでも同じだと思う。ワードの下書きでは気づかない誤りが、ブログにした途端にいろいろ気がつくものである。なぜだろうか。おそらく他人にみられる、あるいは外部の評価にさらされるという緊張感が、自分の文章を違った形で映し出すのではないか。もちろん、ワードで下書きしている段階でもアウトプット前提と思えば、その時点で規範意識は働いている。しかし、ゲラになった段階では、本当に外部媒体に掲載されるというプレッシャーのおかげで、さらに次元の高い意識が働き出すのだと思う。

以上のようにインプットは量も大切であるが、それ以上に質を追求したければ、アウトプットを前提とすることが望ましい。書籍の出版や論文の投稿は、出版社の都合や審査もあるので実現しないかもしれないが、どのような形でもいいので、自分のアウトプットを他人の目にさらす、あるいは外部の批判にさらす、という状態に置くことが効果的なインプットをもたらすコツであると思う。