プレプリント(preprint)の論文とは査読前論文で、厳格な審査を経ていない論文がインターネット上に掲載されるものである。とくに自然科学の分野などは、時間との勝負がある場合や、実験結果の検証が不十分な段階でもある程度結果に確信が持てる場合は、プレプリントとして公開に踏み切ることがある。昨今、新型コロナウイルスに対応するために、世界中の研究者が査読前論文の公開に踏み切っている。それで今の問題の解決に少しでも寄与するのであれば、プレプリントの価値は大いにあると思う。
学術雑誌の査読は、通常2名以上の査読委員が、論文投稿者の名前を伏せた原稿を読んで評価し、掲載するにふさわしい内容であれば合格を出すというもの。査読委員の名前も投稿者の名前も双方に非開示なので、客観的な審査が期待できるという意味で、査読通過後の論文はかなり高度な内容であることが多い。
一方、査読前論文でも優れた論文はいくらでもあるので、プレプリントだとしても私は価値があると思う。要は自分が査読委員になればよいわけである。たとえば、Sawako Hibino et al., Dynamic Change of COVID-19 Seroprevalence among Asymptomatic Population in Tokyo during the Second Wave, medRxiv (2020). によると、ある日本の大手企業に所属する従業員の1,877名の抗体検査をしたところ、東京では今年の夏頃にほとんどの人が免疫獲得を完了していたそうであり、その結果から首都圏の人はすでに免疫を持っていると推察できるわけである。しかし、プレプリントの論文なので質が低いとか、いい加減な内容だという人もいる。本当にそうであろうか。
昨今の学術の世界は専門分野が細分化されてしまい、一つ隣の分野のことはよくわからないということが起きている。そのような状況で当該論文を評価できる適切な査読委員を探すことが難しいはずである。筆者の専門分野で考えても、保険法はわかるけど会社法はよくわからないという人、金融商品取引法はわかるけど信託法はわかないという人、独占禁止法はわかるけど商法はわからないという人がいる。あるいは、ビジネスの世界でも、損害保険はわかるけど生命保険はわからない、融資業務はわかるけどリース業務はわからない、投資信託はわかるけど株式取引はわからない、などあるであろう。このように世の中が専門特化してくると、査読審査の通らない論文の中にも優れた論文がある可能性は大いにある。よって、プレプリントだからといってその論文をバカにして読まない人は、多くのすばらしい事実や発見を見落とすことになる。
さらに査読委員の評価が正しいか疑問なことも多い。かつて査読論文に投稿して、査読委員からフォードバックをいただいたことがある。そのコメントに次のようなものがあった。
査読委員A:
「投稿者が指摘する原因と対策には対応関係が存在しない(あるいは、ほんどと存在しない)したがって、論文の体を成していなと考えられる。」
査読委員B:
「参照している判例、現在の〇〇保険に関する理解など認識の誤りや評価の観点が不明な箇所があるほか、文章のつながらない記述、接続詞の誤り、誤字脱字等が多数(表記や誤字でざっと40か所)あります。展開を修正することが先決であるため、いちいち指摘しませんが、まずは執筆者において精査いただくことを求めます。」
まずは、査読委員Aの「論文の体を成していなと考えられる」は余計であろう。現代の職場でそのような発言があれば、ハラスメントと受け止められるコメントである。次に、査読委員Bの「参照している判例」というのはそれこそ認識の誤りである。おそらく裁判例と判例の違いをご存じない方かと思われるが、論文の中で裁判例しか参照していなかった。判例は一つも参照していなかったのである。しかも日本語の誤りを40か所指摘いただいているが、その後、日本有数の編集力を誇る、公益社団法人の雑誌に同じ論文を修正して掲載いただいたが、校正の段階で40か所の日本語誤りは出てこなかった。自分でも不思議に思った。たしかに10か所程度の誤りはあったが。
この二人の査読委員にしてみれば、ストレス発散で言いたい放題がいえてスッキリしたのかもしれない。なんだかストレス発散に貢献できたと思えば、自分の論文投稿にも意味はあったかもしれないが、査読委員の評価とはこのレベルである。余計なことをいわなければ尊敬できる助言者になるものを、余計なコメントでその人の価値を落としてしまっている。いずれにしても、その人が誰なのかは一生わからないのだが。よって、プレプリントをバカにする方に申し上げたいのは、それでもあなたは査読前論文を読まないですか? ということである。
一方で査読申請の価値は、自分の考えや論理の展開を外部の評価にさらすということにある。よって、査読委員のコメントを読んだときは、とても気分が悪かったが、また近々、査読論文制度に投稿してみたいと思う。小さな失敗を何度も積み重ねて、大きく成長していければいいわけなので。