1999年、ルーマニアに留学しようとある団体の奨学金に申し込んだことがある。
「厳しい寒さが続いていますがご健勝のこととお慶び申し上げます。
さて、ご応募いただいた「2000年度日本人留学生奨学生」は30名の採用予定に対し544名と極めて高い競争率となりました。
留学計画書、推薦文、学校の成績等の提出書類によって慎重に選考した結果、貴方は面接対象者として選ばれました。」
そのことを、ルーマニア人の友人に報告した。
「クリス、奨学金の返事がきたよ。」
「どうっだった?」
「2月に面接を受けることになった。」
「ほんとセイジ、君はルーマニアに行くべきだよ。もったいないよ。アメリカやカナダの大学なんていつでも行けるよ。東ヨーロッパの専門家は少ないから、これは大変なチャンスだよ。」
クリスはブカレスト市のある大学に、日本人留学生を研究生として受け入れてくれるよう打診してくれていた。6ヶ月間その大学でルーマニア語を勉強したあと、ルーマニア北部のクルージュという街にある大学院を受験しようと計画していた。たしかに、東ヨーロッパの法律の専門家は聞いたことがない。あれは、チャンスだったのかもしれない。
しかし、残念ながら、私はそのときすでにカナダのトロントに留学することを決めていた。
「なぜ、カナダになんて行くの? 大学院の奨学金は月20万円だよ。私の母の年収が20万円なのだから、セイジなら月2万円で暮らせるよ。これは大変な贅沢だ。もし英語を勉強したいなら冬休みや夏休みにイギリスに遊びに行けばいい。2、3年遊んでからアメリカでMBAを取ってもいいじゃない。」
彼らしい発想だった。ヨーロッパで2年間遊んで北米へ。なんとも優雅な話だったが後戻りはできなかった。
1999年当時のルーマニアの平均月給は、どうやら月2万円弱ぐらいだったようである。筆者がルーマニアに滞在中、ブラショフ、シナイア、ブカレスト、コンスタンツァのどの街でも外国人観光客が宿泊する三つ星ホテル以上のところにしか泊らなかった。そして、ブカレストだけは高いが、それ以外はすべて7千円以下で泊れた。食事はほとんどレストランでとったが、8日間の滞在で渡航費と宿泊代を除き2万円以上使わなかった。結局、1,000ドルのトラベラーズチェックのうち800ドルを日本に持ち帰ってきた。100ドルをルーマニアの通貨レイに両替すると札束がきてしまう。だから、いつも30ドルずつ両替していた。1ドル=8,500レイであれば100ドルで85万レイになった。とにかく数字になれるまで、かなりの時間がかかった。とくにチップはいくらがいいのか皆目わからなかった。そして、なれたころに帰国となった。
ルーマニアは革命後、資本主義経済を導入するがうまくいっていなかった。中小規模の企業の私有化は進んだが大規模企業の私有化が後回しにされたためであるといわれている。隣国のハンガリーと比較すると経済力の差は非常に開いていて、ブタペストとブカレストを比較すると、はっきりと理解できると多くの人がいっていた。今はその差が縮まったのであろうか。
小山洋司編『東欧経済』(世界思想社、1999年)によると、当時、ポーランド、チェコ、スロヴァキア、ハンガリー、スロヴェニア、クロアチアでは、非共産党政権が成立し、市場経済移行が比較的速やかに進んでいた。それに対しルーマニアをはじめセルビア、モンテネグロ、マケドニア、ブルガリア、アルバニアといった南東欧諸国では、旧共産党系勢力が形を変えて政治の実権を握り続けており、市場経済への移行ははかばかしくなかった。
ルーマニアはNATOにもEUにも第一ラウンドでの加盟は認められなかったものの、最終目標はこれらの組織に加盟し、名実ともに「欧州への回帰」を果すことであった。しかし、これらの組織に加盟すればすべてが解決するかのような理解は幻想であり、西欧への新たな従属という側面も見逃すことはできなかった。現実に多くの若者が母国を離れて他国へ出稼ぎに出ているという悲しい現実があることを忘れてはいけない。
このような背景を踏まえると、西欧の労働市場に東欧の安い労働力が流れ込み、失業問題や民族対立も含めて多くの社会問題がもたらされていることが理解できる。そして、EUという大実験の結果がどうも上手くいっていないことも頷けるかもしれない。個人的には、民族を超えた連帯という壮大な挑戦に緩やかな統合でもよいので成功して欲しいと思う。EUの成功はその後、ユーラシア大陸の統合にもつながり、東の果ての日本にも少なからず良い影響をもたらすはずなので。