髙島清『バラータ』(郁朋社、1999年)によると、ルーマニア大統領チャウシェスクの時代、「ルーマニア人のような優秀な民族は、数が多くなくてはならない」というのが大統領の口癖であったという。人口を増やすことについては、チャウシェスクの妻、副大統領・エレナの方がより熱心だったともいわれる 。
目標達成のためには、どんな厳しい規制をも作って実行してしまうのが、チャウシェスク流である。女性は5人の子供を産むよう求められた。「妊娠中絶禁止法」が制定される。専門検査官が定期検診を行う。妊娠が認められると、当局がその女性を監視する。妊娠中絶は厳しく禁じられた。
しかし、国をあげての人口増加策も、たいして効果がなかったようだ。むしろ負の面ばかりが目立った。ルーマニアは食糧輸出やエネルギー節約で無理な対外債務返済を図る。こうして、暖房は乏しく食料は不足し、赤ん坊に与えるミルクも十分ではなかった。多くの妊婦が危険を覚悟でヤミの中絶に走り命を落とす。ルーマニアの幼児死亡率はヨーロッパ最高となり、孤児であふれ捨て子も増加した。
1989年12月、チャウシェスク夫妻の処刑により、悪評高い人口増加策はやっと破棄された。チャウシェスクに対し善悪を判断するとき、ほとんどの人が同じ結論を出すと思う。それは「悪」である。当時の政治を批判するのはたやすい。ましてチャウシェスク一人の責任にするのが、すべてにおいて都合がいいかもしれない。
しかし、第二次時世界大戦中のヒトラーに関して、ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話2』(サンマーク出版、1998年)において次のような議論がある。
「ヒトラーは、何百万人もの人々が協力し、支援し、積極的に服従しなければ、何もできなかった。だからドイツ人と呼ばれる小グループは、ホロコーストの大きな責任を担うべきだ。しかし、ある意味では、人類という大きなグループにも責任がある。人類は、どんなに冷酷な孤立主義者でも無視できないほど惨事が広がるまで、ドイツ国内の苦しみに無関心で、鈍感だったからだ。ナチの運動を発展させた肥沃な土壌は、集合意識だった。ヒトラーはそのチャンスをつかんだだけだ。
驚かなければならないのは、ヒトラーが歴史上登場したことではなく、あれほど多数のものが彼と行動をともにしたことだよ。恥ずべきは、ヒトラーが何百万人ものユダヤ人を殺したことではなく、何百万人ものユダヤ人が殺されるまで、誰もヒトラーを止めなかったことだ・・・・・(中略)
たいていの人は適者生存で、「力は正義なり」で、競争が不可欠で、勝利が最高の善とされている世界で満足している。そういうシステムが「敗者」を生むとしても自分が敗者でなければ、それでいいと思っている。そういう世界では「間違っている」と判定された人は殺害される。「敗者」であれば飢えたりホームレスになったりし、「強者」でなければ抑圧され、搾取されるが、そんな世界でも、たいてい人は満足している・・・・・(中略)
毎年、何千人が飢え死にしようと、何百人が内戦で死のうと、暴君が地方を踏み荒らそうと、専制君主や武装した、ならず者がレイプし、略奪し、殺人を犯そうと、政府が基本的人権を蹂躙しようと、残る世界は手をこまねいている。そして、あれは「内政問題」だという。
だが、あなたがたの利益がおびやかされれば、投資が、安全が、生活の質が危なくなれば、国家をあげ、世界を仲間に引き入れて、天使でも二の足を踏むような場所へ駆けつける。
そこで、あなたがたは大嘘をつく。「人道的な行動だ、世界の弾圧されたひとたちを助けるためだ」という。ところが実際は、自分の利益を守っているだけだ。その証拠に利害関係のないところには関心をもたない」
「正邪」に対する人の考え方は文化によって、時代によって、ひとりひとりの個人によっていくらでも変わるし、変わってきた。ある時代にはおおぜいの人が「正しい」と考えたことが、たとえば魔女だと思った人を火あぶりにするといったことが、現在は「間違っている」とされる。あるいは、十字軍遠征で聖地を奪還することが「聖戦」とされたことが、今の歴史学者には単なる「略奪」に過ぎないという評価もある。私たちは何と簡単に日常の生活の中で「善悪」「正邪」を判断してしまっていることだろう。この判断を日常から放棄し、あらゆる事柄を中立的に観察していけば、もっと快適な生活を送れるのかもしれない。私たちはこの判断のために、多くのストレスを溜め込んでいると思う。