スペシャリストの生き方

自分だけの生態学的ニッチで生きる

本当の生涯学習が必要な時代

日本では、子どもの教育には親が責任を持つべきで、親が大学の学費を出してやるという感覚が強い。そして、小中学校から私立の学校に子どもを送れる家庭は、相当な経済力が必要である。私立学校に入学するためには専用の塾に通う必要もあるので、そこでも授業料が必要になる。とくに首都圏では、お金さえあれば子どもを小さなうちから私立の学校に通わせ、よい教育が受けられるという観念が強い。

しかし、長い人生で小学受験や中学受験で勝負が決まるわけではない。人生は何度も勝負できる場面がある。20代でも30代でも40代でもある。もちろん、50代、60代でもいくらでもある。もちろん、よい中学校に入学できれば、その後の可能性も広がるかもしれないが、同じ裕福な家庭の同級生しかいない特殊な世界で学べることなど限られている。現実の世界はもっと多様で広がりがある。天才もいれば秀才もいるだろう。そして、やんちゃな子どももいれば、暴力癖のある子どももいる。不良と呼ばれる子どもとの関係からも多くの学びがあるし、そのような子どもとはどのように距離を保てばよいのか子どもなりにも考える。そのような学びがない子どもが大人になり、エリート・ビジネスマンになっても、総会屋から脅されすぐにお金を差し出してしまい、人生を台無しにしてしまう。

そして、幼児教育も大切であるが、社会人の生涯学習というのは人生を深く味わうためにもより重要である。そして、社会人のために論文博士の制度を再構築すべきと思う理由は主に二つある。①人生の最期まで現役で活躍できるスペシャリストの養成、②経済的格差に関係なく学位取得ができる機会の確保、以上である。

ひとつめは、労働市場が大きく変わり一人ひとりの働き方が変わることがある。人生設計そのものが変わろうとしている。自分自身50歳になっても、これから先最低でも20年は世の中に貢献しなければならないと思ったし、そもそも公的年金に頼れないと思うと死ぬまで働けるのが望ましいと考えた。もちろん、60代、70代の人が20代、30代の人と同じ働き方ができるとは思わない。しかし、60代、70代の人が次の世代に残せるものを自ら作らなければならないし、最期まで社会に恩返しできる何かが必要である。

このように考えたとき、日本企業の人材育成では明らかに不十分であることがわかる。ジェネラリストからスペシャリストに転換していかなければならない。そして、ダントツの専門技能を持った職人になるには、ある程度、長期的に計画を立てて自分の専門性を磨き、その分野を開拓していく必要がある。日本企業の人材の育て方は、ジェネラリスト育成に焦点が定まっているので、自分でスペシャリストに転換していく試みが必要になる。そもそも日本企業は60歳過ぎの従業員の育成など考えていない。それこそ自助努力が必要な世界である。

そのとき、企業の中には研究テーマになる素材はいくらでもある。人事部であれば労務管理、営業部であればマーケティング、法務部であれば国際取引、財務部であれば資金調達など大学の中だけでは見つけにくいテーマはある。会社の中にはいろいろな研究材料が存在しているので、これを活用しない手はない。