スペシャリストの生き方

自分だけの生態学的ニッチで生きる

インド哲学による政治的態度決定

一銭にもならない教養が政治的な態度決定に役立つことがある。たとえば、自分はリベラリストであるとはっきり言える人は、おそらく、寛容で人に優しく、奉仕の精神があるであろう。しかし、このような人的な特性だけでリベラリストであり続けるのは難しい。何かぶれることがない座標軸が必要である。また、自分がリベラリストであることに気づく必要もある。

佐和隆光『平成不況の政治経済学』(中公新書、1994年)の内容に自分が保守なのかリベラルなのか判断できるわかりやすい例がある。

いまここに一人の貧者がいたとする。もしあなたが保守主義者ならば、次のようにいうであろう。

「彼または彼女が貧しくなったのは、自助努力が足りなかったからである。もし政府が福祉政策によって彼または彼女を救済したりすれば、彼または彼女にとってはありがたいことかもしれないが、図らずも他の人びとの自助努力をも阻喪することになり、一国経済の生産性を低下させかねない。したがって、政府は過度の福祉政策をつつしむべきである。自助努力を怠った者は、自己責任の原則にのっとり、貧乏に甘んじてもらうべきである」

もしあなたがリベラリストならば、貧者をみて次のようにいうであろう。

「彼または彼女が貧しくなったのは、生まれた環境が悪かった、十分な教育を受けられなかった、健康を害した、人種差別を受けた、性差別を受けたなど、なんらかの理由があってのことである。しかも、いま裕福な人でも、もう一度生まれ変わるとすれば、不幸な境遇におちいる可能性はけっしてゼロではありえまい。その意味でも、失業保険、医療保険、その他の社会保障政策など、めぐまれない人びとを救う社会的装置は、民主主義社会において必要にして不可欠であると同時に、そうした装置をしつらえることについて、社会的な合意を形成しやすい」

これが保守とリベラルを判別するよい例であるが、自分がどちらに与するかの態度決定で「生まれ変わり」の哲学を受け入れることがある。前述の例では、「もう一度生まれ変わるとすれば」というのがあるが、生まれ変わりの哲学を受け入れていなければ、この表現にはまったく共感できないであろう。しかし、生まれ変わりの哲学はヒンドゥー教や仏教では一般的な考えであり、輪廻転生が心の底から受け入れられ信じることができるのであれば、「もう一度生まれ変わるとすれば、不幸な境遇におちいる可能性はけっしてゼロではありえまい」という文章に反応することになる。インド哲学と政治思想がつながる一瞬である。

日本では、政治的態度を表明することが苦手なのか、あるいは表明したくないのか、このような議論を避ける。そもそも議論をしてもお互いに不愉快になったり、相手を論破しようと時間を費やしたりすることが無駄と感じる人も多いのかもしれないが、自分がどちらの態度に与するかは心の奥底で持っておくほうが日々の意思決定に確実な拠り所を与える。人間の思いが行動を引き起こし、世の中を創り上げているのだから、自分の思想や哲学を強固なものにする努力は必要である。