スペシャリストのすすめ

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日本の大学のグローバル対応

日本の大学の現状をみると、大学自体がグローバル化の波のおかげで海外の知を取り込む絶好の機会に立ち会っていることがわかる。また、本来のグローバリゼーションの意味はアメリカナイゼーションと同義語ではないということを再認識する必要がある。英語で授業をして英語で論文を書けばグローバル化に対応ということではない。

本来の大学のグローバル化は、たとえば、神学であれば神道キリスト教イスラーム教、仏教、ヒンドゥー教なども取り込み、哲学的にも回答可能な新たな真理を切り開くことである。そして、法学であれば、ローマ法、イスラーム法、英米法、ヨーロッパ大陸法なども取り込み、既存の枠組みを外しながら世の中を規整する新しいルールを見出すことであろう。あるいは、医学であれば、西洋医学東洋医学、あるいは、インドやスリランカのアーユルベーダなども取り込み、本当に患者に寄り添った新しい統合医療などを研究することであるともいえる。中世ヨーロッパの大学の中心的学問である、神学、法学、医学をみるだけでも、このような可能性を感じることができるが、それ以外の学問分野ではもっと斬新な進化を遂げる部分があると思われる。

しかし、残念ながら日本の大学では、英語で授業を実施することがグローバル人材の育成だといわんばかりに英語教育を強調する。このような状況は、「大学の英会話学校化」といってよい。世界といえばアメリカなのだろうか。あるいは、外国人といえばアメリカ人なのだろう。なんとも短絡的なグローバリゼーションが進行中の現状に対して方針転換しない限り、大学が英会話学校に衣替えすることになろう。

そして、もう一度ルネサンスという世界史の一大イベントをもたらした原動力を顧みると、それは、主にキリスト教社会であるはずのヨーロッパに対して、多くイスラーム教徒がいるアラブ社会から学問が流入したことにあった。そして、その源流はアラブ世界におけるギリシャ語文献からアラビア語への膨大な翻訳作業があったからでもある。現在のイラクの首都、バグダードにあった「知恵の館」と呼ばれる外来学問の研究所では、830年ころから多くの優秀な学者によってギリシャ語文献の翻訳が開始され、おびただしい数の哲学書数学書医学書が翻訳された。ギリシャ、アラブ、ヨーロッパと知恵のリレーがなされて、学問が着実に継承されているわけである。

その点、私たちの存在している現代社会も、長い歴史の流れの一点に過ぎないわけであるが、単に英語を学び、英語でしか見えない世界の知識を貪欲に取り込んだところで、ルネサンスのようなイノベーションは、もう起こらないであろう。本当のグローバル化によってもたらされる恩恵を100%受け取るには、大学の英語学校化では当然不十分であるし、ましてや実学主義だけではいけない。では、何をどのように学ぶべきなのか。現場を十分理解した人材が大いに教養を学び、理論と実務を架橋することで社会に貢献する新しい着想が生まれるのではないかと思う。