スペシャリストの生き方

自分だけの生態学的ニッチで生きる

「欧米では」という議論の違和感

前回の「諸外国」とはどこの国を指しているのだろうか。違和感のある議論のスタートとして、相当な権威のある方でも「欧米では」という表現が使われ、ヨーロッパとアメリカを同質に扱う傾向がみられる。しかし、ヨーロッパとアメリカは異質であり、ヨーロッパの中でも国により地方により、あらゆることが相当異なることを認識したほうが物事を正しく見ることができる。人は世の中の現象や物事を類型化したがるが、現実の世界はそんなに単純ではないのではないだろうか。

たとえば、フランスの高等教育の制度は、日本のそれとはかなり異なる。大学に入学試験はなく、いわゆるバカロレア(baccalauréat)という国家資格を取得した人は、基本的に好きな大学に入れる。大学に進学したい人は、普通バカロレア(baccalauréat général)という試験を受けるが、すべて記述式の回答が必要。そして、将来学びたい学問によって、文学系(Baccalauréat littéraire)、経済系(Baccalauréat économique et social)、科学系(Baccalauréat scientifique)と三種類の分野があるが、哲学と国語(フランス語)は全ての分野で必須となる。典型的な哲学の問題は、「働くことはあなたを自由にするか?(Travailler rend-il libre?)」というような内容であるが、なんだかワクワクする課題設定であり、これにフランスの高校生が答えるわけである。また、浅野清氏の「学歴社会フランスの学校制度」浅野清編『成熟社会の教育・家族・雇用システム‐日仏比較の視点から』(NTT出版、2005年)によると、バカロレアの試験内容は、古典文化や古典音楽、歴史に対しての理解が必要な出題が多いという。そして、家庭のなかで日常的に古典文化や古典音楽に慣れ親しんでいない学生にとっては、非常にハードルが高い試験だということだ。

アメリカのハリウッド映画で、車が飛んで炎上したり、主人公が街中で銃を乱射して悪人を倒したり、というような内容の映画が生産される文化と、何かとストーリーが複雑で、登場人物の役割もはっきりしないが、観客にそこはかとない余韻を与えて、映画館からの帰り道で深い思索をさられる映画を作る文化の違いが、このような教育制度の違いからくるのかもしれないと思うのは私だけだろうか。

また、フランスには、グランゼコール(Grandes Écoles)という高等職業教育機関がある。最近は日本にも専門職大学院ができているが全くレベルが異なる。一部の官立のグランゼコールなどは学費が無料で給料も出るという。そこの卒業生からは多くの大統領や首相が誕生している。また、高級官僚になったり大企業の幹部になったりしている。

一方、わが国の専門職大学院法科大学院などは、アメリカの制度を輸入したわけだが、当初7万人以上いた志願者は、8千人近くまで落ち込み、司法試験合格率も司法試験予備試験の受験者に抜かれている。本来、司法試験の受験資格を得るためには、原則として法科大学院を修了しなければならないが、時間や金銭上の都合で法科大学院に入学できない人にも司法試験の受験資格を得る道を開くために、2011年から予備試験が実施されている。この予備試験に合格すると、法科大学院を修了した者と同等の学力があるものと見なされ、司法試験の受験資格を得ることができるのである。どうも、日本はアメリカの制度を導入すると失敗するようである。そもそも国の成り立ちが違う。そろそろ考えをあらため、ヨーロッパなど他国の制度も参照しながら、独自の道を切り開くべきときのように思う。

私には論文博士が将来廃止されるかどうかわからないが、制度として残すべきだという考えである。あらゆる人に開かれた制度として、わが国の論文博士は貴重である。また、高等教育に異常なほど経済的負担がかかるわが国だからこそ残すべき制度だと思う。廃止することで課程博士の道しかなくなるということは、お金のない人には博士号の道を閉ざすことを意味することになる。お金がなくても実力がある人には、あらゆる可能性の扉を開いておくべきではないだろうか。