スペシャリストの生き方

自分だけの生態学的ニッチで生きる

会社への従属から業界への帰属へ

たとえば、社会人にとって博士号への挑戦は、たとえ学位が取れようと取れまいと、多くの人にとって価値のある取り組みになる。何十年も実務経験を積んできた内容を理論的・体系的に分析し整理することで、その後の業務に大きな意義を与えてくれる。たとえば、実利的な点でいえば、職場において、だれでもよく業務に関して相談や質問を受けることがあるであろう。現場で発生する課題なので、かなり複雑で専門的な論点であったりするわけだが、すでに解決策や提言を論文に記述しておけば、質問してきた顧客や同僚に、論文の該当箇所を参照してもらうだけで回答になるわけである。しかも格式高い学術雑誌の論文であれば、相手からの信頼も増すことと思う。いちいち、ゼロから説明しなくてもよいので、非常に効率的で時間の節約になる。しかも問いに対する答えがどこにあるか自分でわかるのはかなり便利である。

さらに、将来の収入の多様化を狙える。最近は社会人出身の大学教員が増えてきており、特任教授などの学内雑務を担当しない職種も増えている。あるいは、非常勤講師でアルバイトというのもあるだろう。そして、どんなに優秀なビジネスパーソンで出世街道まっしぐらという方でも、不本意ながら自分の会社が破綻することがあったり、吸収合併されたりすることもある。私も1993年に損害保険会社に入社したときは、当然退職まで同じ会社に勤めると思い込んでいた。当時の損害保険会社は、まさしく「ゆりかごから墓場まで」という表現がしっくりくるくらい従業員に対する面倒見がよく、労働組合もユニオン・ショップ(union shop)制で、その会社の従業員になったらかならず組合員になり、組合から脱退すると会社は当該従業員を解雇する義務があるという制度のもとで働いた。自分は組合に守られているという感覚は強かった。しかし、保険自由化で損害保険会社が大合併する時代が到来し、あえなく自分の会社は合併の憂き目に遭う。

実は、その合併が発表になる半年前に、私は会社を退職していた。もちろん、自分の会社が合併することなど事前に知るわけがない。そんな重要なインサイダー情報が私のところに届くわけがない。いろいろな偶然が重なり退職を決意したわけだが、私が退職の意思を上司に伝えたとき、「うちの社長は社員を路頭に迷わせるようなことは絶対にしないから会社に残れ」と説得された。しかし、サラリーマンはそんなものである。部長クラスでも会社の将来など見えるわけがない。そう考えると、会社に従属するくらいなら業界に帰属するほうが安全ということになる。すなわち、博士論文を執筆しその業界における特定分野の経験や知見を理論化しておくことで、会社に従属するのではなく業界に帰属することになり、自分の立ち位置に柔軟性をもたらすことが可能になるわけである。つまり会社は消滅することはあっても業界が消滅することはなかなかないわけで、その業界に寄与するような理論や知識、情報を体系化してまとめておくことは、業界の中で自分が生きていくときに非常に役立つわけである。その点、博士論文をまとめるということは、業界の実務の発展に貢献することになるし、何かあったときに自分を助けることにもなる。

一方、ビジネスの世界であればMBAが有名であるが、正直、実務に威力を発揮できるノウハウが身に着くかというと疑問かもしれない。MBAの教育内容は専門家育成というより、経営全体を俯瞰する視座を得るジェネラリストのための教育であり、現場で威力を発揮するする尖った知識を身につけるものではない。ましてや修士号であれば、大学院に入学して修了できれば学位が取得できる。修士論文の出来が悪くて不合格になったという話は、ほとんど聞いたことがない。もちろん、お金に余裕があれば通ってもいいが、そこで得られた知識が、現在の自分の業務を劇的に楽にするとか、自分に大きな付加価値を与えるというところまではいかないと思われる。もちろん、知識だけではなく異なる世界の人脈が得られるという副次的効果はあると思われるが、高い学費を考えると別の方法でも人脈の多様化は可能であろう。

また、大学で実学を前面に押し出しアピールすることがあるが、4年間の大学生活で実学を学んだところで、ビジネスの現場で即戦力になるほど実務は単純ではない。藤原正彦氏が『国家の品格』(新潮新書、2005年)という書籍の中で、真のエリートの条件のひとつに「文学、哲学、歴史、芸術、科学といった、何の役にも立たないような教養をたっぷり身につけていること」とを挙げているが、全く同感である。この「何の役にも立たない」何かが、10年後、20年後に重要な判断や人生の危機を脱出するときに重厚な価値をもたらすのであろう。そういう意味で大学や大学院は、実務に何も役立たない、あるいは金儲けには何にも貢献しない学問をするところであり、実務はやはり現場で学ぶものだといえる。そう考えると、実学重視の今の大学の戦略にいかほどの意味があるのか甚だ疑問である。そういう意味でも、とくに社会科学系や自然科学系でビジネスに直結する分野であれば、課程博士よりも大学院には通わないで取得する論文博士の方がお勧めということになる。