職人的生き方の時代

自分だけの生態学的ニッチで生きる

「博士号」それがどうしたの!?

書籍化した博士論文が予約できるようになりました。
『先端的D&O保険の実効性と限界』(保険毎日新聞社、2023年)

Amazon.co.jp: 先端的D&O保険の実効性と限界 : 山越誠司: 本

1年前から30社近い出版社に照会し、自分の条件に合致する先がみつかるまで、紆余曲折ありましたが、ようやく11月に発売です。

ところで、博士号とは何かについてイメージしやすい動画がありました。

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この動画を参考に、私にとって二つ気づきがあるので、以下のとおりご紹介します。

まず一点目は、博士号を取得しても、「人類の知識すべてを含む円」の内側に膨大な空白部分が残っているということ。このことを踏まえると、現実の複雑な世界では、専門家といえども課題に対して有効な対策が打ち出せないというのは当たり前で、私たちは専門家といわれる人を安易に信じてはいけないということがわかります。私も自分の専門分野から少しズレると突然素人になりますし、自分の専門分野であっても未知の世界はたくさん残っています。

二点目は、「人類の知識すべてを含む円」の外側に膨大な世界が広がっているということ。こちらの方がもっと大切かもしれません。この点を自覚すると、現在の限られた知識と科学で、断定的な発言ができなくなります。そこがいいところです。本当は人類の知識の外側には、より多くの真実があるのは間違いない。博士号を取ろうが、その分野の権威であろうが、現時点で、科学的だとか学術的だとか叫んでみても、1000年後あるいは2000年後の科学からみれば、小学校の理科の実験や国語の感想文レベルのことなのだと思います。

このように考えると、自分の頑張りに対して、よくやったと褒めたい気持ちもありますが、「それで?」という気持ちもあります。力んだところで、「人類の知識すべてを含む円」の内側の、さらに一部分で七転八倒しているということですね。「人類の知識すべてを含む円」の外側の世界に、深淵な真実がいっぱいあることに思いを馳せながら、ささやかな望みとして、真理の探求にボチボチといそしみたいと思います。

東京という街に「ゆとり」はなくなった

先日、何だか東京は嫌だな、と思う出来事がありました。会社があるので、東京には行かなければなりませんが、もう私の中に東京はNOというサインが出はじめているようです。

その嫌な出来事は珍しく週末に起きました。地方から出てきた甥っ子が東京の長男のアパートに3泊するので、東京滞在中に品川でみんなで夕飯を食べようということになりました。週末に東京なんて行くことはないのですが。東京に出て驚いたのは、やはり人の多さ。それからサービス業の質の低下でした。

最初に入ったレストランは、「人手不足のためサービスが遅れます」という注意書き。本当に人手不足は深刻なのだと思い、別のレストランへ。

ホテルなら大丈夫かと思い、レストランの入口でスタッフに質問するものの、ほとんど返事がない??? 日本語が通じないわけではないのでしょうが、顧客が聞きたいことに的確に答えられないようです。一流とはいわないものの、それなりのホテルだったので驚きました。これはダメだと思い、そこはやめに。

その次に入ったピザ・レストランの入口では、「時間制ですが」といわれて意味がわかりませんでした。カラオケでもないのに時間制??? 趣旨は2時間制ということだったようです。前職はカラオケ店の店員だったのでしょうか。ちなみに、日本語のアクセントから、間違いなく日本人だったと思います。

このように、東京はただでさえゆとりがないのに、人手不足で、なおかつ研修もうまく提供できないのでしょう。もっとお金を出せば、上質なサービスを受けられるレストランはあるのでしょうが、そんな、「もっともっと」の東京という街に魅力は感じません。そもそもセレブでもなんでもないですし。

東京はこのような状況になっていますが、地方都市はまだサービスは良いと思います。サービス業の人手不足は地方も同じでしょうが、利用する顧客数も東京に比べれば少ない。まだまだ、スタッフと顧客の会話も成り立つし、ユーモアあふれたコミュニケーションもあり得ます。「ゆとり」を求めた場合、もう東京にそのような隙は存在していないのかもしれません。

環境問題を語るセレブには見えない世界がある

本当に地球は温暖化しているのか、ということについて正しい答えはありません。データのとり方、データの観測期間、予測データの入力等によって結論が変わります。いろいろな研究者が研究結果を出しているので、複数の研究を参照し、バランスの取れた判断をしていくことも大切です。過激な思想に染まらないためにも。

有馬純『亡国の環境原理主義』(エネルギーフォーラム、2021年)は、その点で私たちに反省を促す良書です。私たちがいかに「雰囲気」に流されやすいか、科学的データを軽視しやすいか、立場によって人の主張は変わりやすいのか、ということを示してくれます。

書名にもある「環境原理主義」は、「イスラム原理主義」や「キリスト教原理主義」のように、環境保護に関する過激な思想を他者にも押し付けるような主義のことをいいます。環境活動家のグレタさんは典型的ですね。彼女は「あなた方が話すのはお金とか経済成長というおとぎ話ばかり。よく、そんなことが言えますね」という発言をしていますが、スウェーデンのような豊かな国のセレブには、多くの人々が今まさに生きるか死ぬかの状況に置かれている貧しい国のことは視野に入らないでしょう。

日本にも環境保護について発言が多かった坂本龍一氏も、原発停止による電気料金上昇の懸念に関して「たかが電気のために」と言い放ちましたが、セレブの彼にとって電気料金の上昇など大した問題ではなかったのでしょう。

ここで大切なのは、地球が温暖化しているのかどうか、あるいは、原発は止めるべきなのかどうか、どちらの政策が正しいのかというよりも、すでに豊かになってしまった人や国にとって、いまだに貧しい人や国のことが視界に入ってこないという問題だと思います。

より豊かな生活をするために、経済成長することは大切ですし、そのカギを握るエネルギー政策に選択肢があることは、その国や人々にとっては重要なはずです。もちろん、日々生きていくために低廉な電力を確保することも大切です。そう考えると、物質的に満ち足りた世界にいる人たちが、貧困層への配慮もなく、軽々しく持論を展開する姿は稚拙に映ってしまいます。

この点、有馬氏ははっきりと偽善に思えるといいます。屋根上ソーラーにせよ、電気自動車にせよ、環境原理主義者が主張する政策で経済的便益を受けるのは富裕層です。グレタさんがすべての化石燃料関連投資の差し止めを求める公開書簡は発出したとき、賛同者には、レオナルド・ディカプリオ氏やラッセル・クロウ氏など、名だたる俳優やアーティが名を連ねていました。自らは安楽な暮らしをしながら、貧しい人の生活水準の向上に必要なエネルギーの選択肢を奪うことが、何を意味するのか彼らには想像できないのでしょう。

環境保護という誰もが否定しにくい問題について、環境に配慮すべきというような発言をするのは容易ですし、反論されることも珍しいかもしれませんが、環境問題の本質はそれこそ「おとぎ話」ではない点にあるということかもしれません。

次の世代に伝えたいことを「紙」で残す

良いのか悪いのか、一般書と専門書の出版が重なり、珍しく校正作業に追われていました。どちらも、初回校正が終了し、2回目を待っている状況ですが、いろいろ気づくことがありました。

まず、ワード原稿では気がつかないミスが、なぜゲラになると際立つのか不思議です。執筆から時が経過しているために、頭がリセットされて、違う目線でゲラを読むことができるのかもしれません。特に専門書の方は、博士論文の書籍化なので、ワード原稿の段階で、精魂尽き果てるまでチェックしたはず。それでもミスはみつかります。

たとえば、「弁護士を委任する」するという表現を、「弁護士に委任する」に修正しました。「を」を使用するなら、「弁護を委任する」でしょうか。まさしく、「てにをは」ですが、バカにできませんね。論文執筆は、正しい日本語を使うというインセンティブが働く点で、私に多くの果実をもたらします。

組版の過程でも意外なミスが発生します。組版とは活字を組み合わせて印刷の元になる版を作るということのようですが、私のワード原稿にある一つの文章が抜け落ちていました。かなり珍しい事象のようですが、どんなに印刷技術が発達しても、想定外の事故が起きるということです。最後は、人の目による校正で修正されるわけですが、出版業界でも職人の活躍の「場」というのが、まだまだ残されていることを知る出来事でした。

これで3冊目の専門書と2冊目の一般書になりますが、このブログを書く以上に、慎重に文章を組み立てていると思います。紙になると修正が効かないというのが、厄介でもあり、良いところでもあります。後々残るものと思うとそれは気合が入るものです。

50年後、私はこの世にいませんが、本は存在しており、もし自分の孫が読むかもしれないとなると、いい加減なことは書けなくなりますね。まだ、孫がいないうちから心配する自分も愚かですが、紙になる効用というのはこの点にあると思います。

活字離れがいわれて久しいですが、やはり紙による書籍の出版は残って欲しいと思います。多くの人がブログなどで情報発信する機会が増え、次は紙に残す作業に移行することで、伝統を重視したより正しい日本語で、次世代に多様な考えがあったことを残すことになると思います。技術が進歩し、誰もが安価に書籍を出版できるようになればいいですね。

そごう・西武のニュースからバブル時代を想い出す

そごう・西武労組がストライキを実施することを、セブン&アイ・ホールディングズに伝えたニュースに接しました。大手百貨店のそごうと西武は、いつの間にか同じ資本グループに入っていたんですね。しかも、大手スーパーの傘下ということで、バブル時代を知る人間にとっては不思議な感じがします。

私は、1987年~1991年まで大学生でしたから、バブル絶頂と崩壊の局面にあったわけです。しかし、自分で稼いでいたわけではないので、バブルの実感がありませんでした。シーマとかいうむやみにデカい車が売れた時代です。当時は、渋谷、新宿、池袋の中でも、池袋に行く機会が多く、西武百貨店東武百貨店もよく行きました。セゾン文化なる言葉もあり、東武よりもセゾングループが、何となく格好いい雰囲気を醸し出していたと思います。それが外資に売却されるというのは、たしかに寂しい感じがします。

このセゾングループの代表だったのが堤清二氏ですが、作家でもあり、中央大学から博士(経済学)の学位も授与された理論家でもありました。何となく感性で経営をされていたような印象もあり、意外でもありますが、西武百貨店を二流、三流から一流に育てた実績はすばらしいと思います。

一方、そごう百貨店も法学博士の水島廣雄氏によって、二流、三流から一流百貨店に変革されており、西武とそごうには共通点が見出せます。水島氏は、企業担保法の権威で、自分の研究成果をまさに実務における資金調達で活用し、積極的な出店戦略をとっていたことになります。

私が東洋大学法学部に在籍していた頃には、すでに70歳定年で教授職は辞めていましたが、その後も大学に影響力は残っていたと思います。大学院に進学するか迷っていたとき、ある先生に「そごうだったらいつでも入れるから言いなさい」といわれたことがあります。一教授が教え子にそんなこをといって、面接試験で不合格になったら大変なわけですから、確信がなければそのような発言はなかったと思います。

当時は、自分の故郷にも札幌そごうが駅前にあったし、東証一部上場企業だったわけなので、それもあり得る選択と思った記憶があります。その道を選んでいれば、今回のストライキに参加していたでしょうか。その前に早期退職制度でリストラだったでしょうね。

いずれにしても、バブル時代に存在していた華やかな企業は、このようにして、どんどん外国資本に売却されていきます。最近、ビッグモーター事件で話題の損保ジャパンだって、安田火災日産火災、大成火災、日本火災興亜火災が合併してできた会社で、巨大グループを形成しているわけですが、株主のかなりの割合が外国資本になっていることでしょう。開示情報では信託口となっているので個別の機関投資家の名前までわかりませんが。

昔、「自民党をぶっ壊す」といって構造改革をした首相がいましたが、日本までぶっ壊したのかもしれませんね。でもこれは一連の浄化作用のプロセスなのだと思います。かなり混乱しているようにみえますが、少しずつデトックスして、体が軽くなるように、新しい日本ができつつある途上なのだと。人によっては、かなりつらい好転反応ということかもしれませんが。

ビジネススクールの学生の質は低いのか

橘木俊詔氏の『日本の教育格差』(岩波新書、2010年)のレビューがPDFで読めたので参考まで(私は読んだことがない本です)。

br1008.pdf (rochokyo.gr.jp)

橘木氏は、日本の教育格差の拡大について警鐘を鳴らしている方です。兵庫県出身にもかかわらず、小樽商科大学に行かれて、その後、アメリカの大学でPh.D.を取られ研究者になられた珍しい方です。私は札幌出身なので小樽商科大学を知っていますが、官立の高等商業学校で、昔は全国から学生を集めた、今は意外と知られていない名門校です。高校生の時はビジネスマンになるつもりはなかった私は、まったく進学を考えもしませんでしたが、結局ビジネスマンになっています。自分の住んでいたすぐ隣の街にこんな良い学校があったのに素通りしており、人生は不思議なものです。

そして、橘木氏は別の本かメディアで、ビジネススクールのことについて言及していたことを思い出しまし。立場上、日本のビジネススクールの多くの教員との交流があるのでしょう。いろいろな情報を整理すると、入学してくる学生の質が低いという指摘をしていました。おそらく、日本の企業組織の中で出世コースから外れ、競争優位がないと自覚している人がMBAを取りにくるのだろうと。そして、出世コースにいるエリートは、社内で十分な役職や教育機会を与えられているので、わざわざビジネススクールに行く必要がないと考えているのではないかということです。

日本の組織内エリートの質が高くて、ビジネススクールに行く人の質が低いというのは本当でしょうか。たしかに、何の準備もせず、ビジネススクールがどのようなところか調べもせずに行く人はいるかもしれません。しかし、私は観察していてどちらも差はないと思います。組織文化によって違いはあるでしょうが、たとえば、社長がタバコを吸う組織であれば、タバコを吸う人が出世する傾向はないでしょうか。これは一例に過ぎませんが、昔と違い、今はどこでもタバコは吸えません。喫煙室に行かざるを得ませんが、そこで会話ができる人が出世するということはないでしょうか。酒の席もそうですし、ゴルフもそうです。トップと同じ嗜好があれば、比較的出世コースに乗れる機会があるというその程度のものではないかと思います。しかし、その社長がトップである限りという条件が付きますが。

また、これからのビジネスマンは、別の組織に転職しても即戦力になることが必要と考えると、トップの嗜好に合わせて、何とか生き延びるという姿勢では、なかなか厳しいと思います。ある程度、汎用性があり、組織の外からも評価される技術を身につけておかないと、キャリアに安定感が得られません。今の組織でエリートといわれる人が、他の組織でも同じ成果を出せる保証はないというケースが多いのではないでしょうか。

また、仮に出世して、役員あるいは部長になろうが、結局、退任あるいは退職してしまうと、タダの人ということも多いです。稀にリタイヤしてから活躍し出す人もいますが、10年も20年もかけて準備している人が多いようです。そういう人は定年延長を選んでいない傾向がありますね。

やはり汎用性のある技術を身につけるために、ビジネススクールである必要はありませんが、専門性を磨くということは、組織内エリートであろうが、そうでない人であろうが必要なことのように思います。その一つの手段として社会人大学院の活用があるということだと思いました。

大学無償化という投資と親の責任

兵庫県立大学と県立芸術文化観光専門職大学の学費が無償化されるそうです。本人と生計維持者が兵庫県内に3年以上在住していることが条件。

兵庫県立2大学の無償化、24年度に大学4年生から 26年度までに全学年へ拡大 大学院の前後期も対象|社会|神戸新聞NEXT (kobe-np.co.jp)

私と二男が引っ越しすれば、まだ間に合います。冗談はさておき、それでも大阪勤務の人であれば、十分あり得る選択肢ではないでしょうか。大阪に住んでいる人が、兵庫に引っ越しして、大阪まで通勤するというのはあり得ますね。このようなニュースに接すると、国会議員に期待することは難しそうですが、地方議員次第では、発展する地域と衰退する地域の明暗が分かれる時代かもしれないと感じます。

ちなみに、ヨーロッパは国によって学費が無料の国はあるので、兵庫県が特別なことをしているということでもないと思います。将来、しっかり稼いで税金を支払ってもらえばよいわけですから、県としては投資をしていることになります。余計な公共工事よりもはるかに効果的な投資ではないでしょうか。

一方、長男が東京の私立大学に通いはじめましたが、親殺しかと思うほど高額な学費です。国際○○学部といっておきながら、英語のクラス分けのTOEICの試験で350点の学生がいたそうです。日本史とか国文学を専攻するわけでもない学部なのに、なかなか取れる点数ではないでしょう。付属高校や推薦入試の学生が全体の半分以上の状態で、もう大学というところも崩壊状態かもしれません。

ある人がいっていました。富裕層の子どもが小学校から大学まで行く学校がありますが、大学生になると半分以上がタバコを吸っているそうです。「タバコを買えるだけ余裕があるんですね」と。たしかに、経済的な危機意識もなく、楽しく大学に行かせてもらえる人と、そうでない人の格差は広がっているように感じます。

親としてもこれで投資になるのかと半信半疑のまま進むしかありませんが、「子どもの教育は親の責任」という昔からの考えは本当でしょうか。ヨーロッパをみていると、本来は国の責任、あるいは社会の責任だと思います。日本の家族中心主義的な発想は、自分の子どもの教育には、惜しむことなくお金を使うが、他人の子どものために税金を使いたくないという貧しい発想がどこかにあるということではないでしょうか。その貧しい発想を、子どものしつけは親の責任とか、子どもの教育は親の責任という道徳的な標語にして、私たちを縛り付けているのではないか思いたくなります。

そうすることによって、親は子どもの教育費のために支出を抑えざるを得ないので、消費は冷え込むし、親自身が自分の人生を楽しめなくなります。子どものために犠牲になる人生で、子どもに過剰な期待をする親も出てきます。そんな犠牲によって子どもが幸せになれる保証はどこにもないのに。さらに、子どもを増やせないと思う人が増えれば、少子化も加速します。これでは、八方塞がりだと思う人も多いのではないでしょうか。暗い話になりましたが、このような状況でも、知恵を出し、リスクも取りながら、楽しく生きていく術はあることでしょう。私も子どもの学費の高さに悲鳴をあげながらも、大いに楽しもうと思います。