尊敬できる師に出会う、というのも社会人が大学院に行くメリットかもしれません。ただ、こればかりは「ご縁」なので、出会いがないこともあるでしょう。私の場合、2名のみ挙げさせていただきます。
大学の一般教養課程でしたが、評論家の四方田犬彦氏に英語を教わりました。英語の授業ではありましたが、教材がインドの叙述詩『マハーバーラタ』と、1988年に映画化もされたミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』でした。英語を使って作品を味わう授業で、他の英語の先生と格が違うといってよいほど深い授業でした。そもそも英語の先生ではなかったのですが。そして、当時の思想界には、新しい風が吹いていたようで、四方田氏もその一角を担う人でした。そのような方に大学生の早い段階で教えを請うことができたのは、私にとって幸運だったと思います。
その後、四方田氏は明治学院大学に転籍され、私もご縁なく35年以上が経過しました。しかし、哲学に興味があるので、ときどき四方田氏の著作は拝読しています。自分の専門分野ではないものの、知的好奇心を刺激してくれるという点で、いまだにお世話になっているといえるかもしれません。
もう一人が、一橋大学名誉教授で大学院の講師だった喜多了祐氏。修士課程で商法を教えていただきました。当時の授業には、なぜかどこかの大学の現役教員も参加されており、「君たちは喜多先生の最後の講義を聴講できて幸せだ!」といわれました。1991年~1992年が大学教員としては最後の年だったようです。どんなに凄い先生かと思いましたが、授業を受ければすぐに理解できました。喜多先生はよく、「私の説は多数説でも少数説でもありません。単独説です!」といわれるユニークな方でした。小樽市出身で、子どもの頃、小樽のソ連副領事館で英語を学んだとおっしゃっていました。英語はペラペラで、英語圏にも留学されています。
その後、喜多先生の博士論文をベースにした『外観優越の法理』という大著を読む機会がありました。英語の得意な先生だから、さぞかし英米法を比較対象にしているのかと思ったのですが、ほとんどドイツ法を参照されていました。普通、自分の自信のある言語を使って比較法的な分析をするものでしょうが、喜多先生には良い意味で裏切られました。しかも、ドイツ法の緻密な分析もあり、私にはまったく歯が立たない内容で、先生の研究者として深さを知ることになったのです。
このように、自分に大きな影響を与えてくれる師というのは、まず人としてユニークで、オンリーワンという人が多いように思います。多数説や少数説とかの次元ではなく、独自の説を主張し、新しい分野を切り開くような方でしょうか。大学院の2年あるいは3年の間にそのような師に出会えれば、学費を払った甲斐があるというものです。その後の人生に長く影響与え続けるものと思います。
参考にリンクの社会人大学院に関する活動の一部をご案内いたします。
働きながら社会人大学院で学ぶ研究会 CAMPFIREコミュニティ (camp-fire.jp)
社会人大学院に関する本の出版と研究会の立ち上げ - CAMPFIRE (キャンプファイヤー) (camp-fire.jp)